任務帰りが明るくなってきた朝方だったということもあるし、東からきらきらと差し込んでくる陽光がとても爽やかだったということも原因のうちの一つだと思う。探索員二人が漕いできてくれた舟へ乗り込んで教団内に入り込むまで、オレはずっと彼らの操るオールが水面に映りこむ太陽を奮い立たせては蹂躙するのを、夢中になって覗き込んでいた。 周りから見たら気持ち悪いくらいに上機嫌だっただろう。いつから始めていたのかもわからない鼻歌が時々調子外れになるたびに神田が疎ましげな視線を送ってくるのも、(全くと言うとそうでもないのだけれど)気にならない。 「晴れだー…」 うっとりと呟いてみたが、目を瞑って静かに座り込んでいる神田はノーリアクションだ。舟の上の模範生かおまえは、こんな晴れの室外で座禅ってこともないだろう?、とだらしなく開けた口から謎の文句を発射しそうになったが、きっと神田は鉄壁の要塞だからそんな銃弾もかるく弾き飛ばしてしまうに決まっているのだ。だからオレはそんな無駄撃ちをする気はない。、というより、ほんとに水面が綺麗だったのでそっちに夢中になっていただけなんですがね。 微笑ましげに見守っていた探索員が、神田が一向に口を開かないのに気を遣ったのかは知らないが「ここの所ずっと雨でしたよね」と話しかけてきてくれる。なのでこちらも一旦水面から視線を外して「ドイツでも降られちゃってさ」と苦笑いを返した。 雨にはあまり良い思い出もないから、オレは晴れが大好きだった。明るい気持ちになれるし。 探索員の顔から視線を外してちらりと水面に微笑んだあと、顎をぐっと持ち上げて眼前の教団を見上げる。そして、ああ、こんなんだったっけ、と どことなく感動を覚えた。 厳かに構える塔は、珍しく雲ひとつ無い晴天のおかげで天辺まで見ることができたから、余計に新鮮だったのだろうか。 「小さい頃は怖かったんだよね、変なお化けとか出そうでさぁ」 茶化すように笑うと、探索員もつられて笑った。そういえば、ダグは元気だろうか。次に会ったら一言といわずお礼を言いたいな。 記憶を取り戻してからというものの、見るもの全てが新鮮に思えた。『あの子』がそう感じるから、オレの意思にも連動されているのだろうと思う。だから、やっとリナリーに会えるとか、ジェリーさんの美味しいご飯食べたいなとか、リーバーやくんは今日も仕事に追われてるんだろうなとか、そんなオレの舞い上がった気分と行動の傍らで、指先が『怖い』ってカタカタと泣きじゃくるのは仕方の無いことなのだ、多分。 仕方の無いことだから、オレはこういう時は昨日から心の中で「大丈夫だよ」と呟くことに決めていた。あやすように呟けば、泣き疲れた指先はゆっくりと眠りに落ちて大人しくなる。 傍らではいつの間にか顔を上げていた神田が、訝しげにオレの指先と右手を観察していた。 *** 「 お、神田ちょうどいいところに」 「…」 初めましての際にその呼び方を願われたらしい神田は、わりと素直にくんのことを名前で呼んでいる。 司令室への道のりでバッタリと出くわした彼に ああ帰ってきたんだなあ、とじんわり胸の奥が暖まった。 ひょっこりと一歩前に進んで「くんただいま!」と元気よく手を振り上げると、彼は「うわあ」とびっくりしたように半歩だけ後退する。 「は、班長…いたんですか?」 「あれなに、居ちゃまずかった感じ?」 「いえ、ただその、ちょうど神田が陰になって…」 「見えなかったってか!」 おかえりより先にこのお馴染みの会話をする破目になるとは思っていなかったので、流石にへこんだ。 いやまあたしかにね、教団でこれくらいの身長なんてオレとブックマンしか居ないのだから指摘したくなるのは分かるけど、心の中で済ませてくれればいいじゃない。 ふん、まあいつものことだけどさ、と唇を尖らせたオレをくんが珍しいものを見るような目で観察していたが、それも束の間に「ああ、そうだ」と脱線した会話をレールの上に引き寄せる。 「神田にちょっと頼みたいことがあってさ。 今からでも平気か?」 「あ? なんだよ」 「室長に頼まれたことがあって」 首をかしげながら曖昧に笑う彼を見て、どうやらここで内容を言わないということは、オレにはあまり聞かれたくない話題なのかなと思い当たる。こちらに背中を向けたくんに向き合っていた神田が不意にこちらへ目配せしたところから見ても、恐らくこの予想は当たりのようだった。 「じゃあオレが報告してくるから、また後でね」 「すみません班長」 じゃあ、と手を振って軽く駆け出すと、すぐ先の曲がり角に差し掛かった辺りで神田の「おい」という訝しげな声が掛かった。 「どこへ行くんだ?」 「? 司令室だけど」 「階段は逆ですよ」 ピッ、とくんが指差す方向にはたしかに螺旋階段が見える。あれ、とそこから目を離して並んだ黒髪二人に目を戻すと、彼らは苦笑いとしかめっ面で、二人とも正反対の表情で呆れを表していた。 「おっかしいなー…っと」 とりあえず、生来の方向音痴は直っていないらしい。 神田の下がった口端が一瞬だけホッとしたように上がる所を目撃してしまい、オレはようやっと恥ずかしい気持ちを実感するのだった。笑っただけで恥ずかしさと嬉しさの両方を食らわせる男なんてなかなかいないぞ、畜生。 *** 「ああやっぱり、リミッターが切れてるみたい」 「…お前まじオレをどうしたいの…」 ぐったりとソファへ雪崩れ込むと、コムイがやっと納得したと言うように手元の何枚かの報告書に再度目を通す。10枚弱はありそうなそれは、すべて今日のうちに作成されたものだった。帰ってきたのは朝方だったのに、今はもう夜。作り上げるのに12時間はかけたであろうオレの協力の賜物を、コムイはぱらりぱらりとものの1分で読みきってしまった。オレの半日は室長であるコムイにとっては1分ぶんの価値でしかないのか、と思わず唇を尖らせると彼は「ごめんごめーん、そんな拗ねないでよ」と軽い調子で謝罪を述べた。「(理由もわかってないくせに!)」 司令室へ行くなり、へブラスカの所に連れて行かれてシンクロ率を計ったと思ったら今度はコムイの研究室に連れて行かれて上半身半裸になり、妙な機械の中に寝かされたかと思うとモニターにはオレの背部からのレントゲンが映し出され、「ああなんだ終わったのか」と服を着なおすと先ほど別れたばかりのくんがやってきて背中を見せろとやっぱり半裸になるはめになり、そして今度は手術室まで引き摺られて中に足を踏み入れると、何やら少し大きめの注射器を用意していたリーバーが苦笑いをこちらへ送ってからあろう事かそのふっとい針をオレの背中に刺しこんだ。(これがものすごく痛くてオレはもう半泣きだった)。そしてズキズキと痛む背中を押さえてまたヘブラスカの所へ行き、その間に血液の解析が終わったと医療班と科学班からレポートが上がってきて、司令室でコムイとリーバーとくんとオレ、というよくわからないけれど何処か豪華な四者面談が先ほどやっと終わったところだった。四者面談っていうか、ほとんどオレへの尋問みたいな質問攻めだったけど。 リーバーに苦笑いで『イノセンス見せてくれ』と言われるまで、オレはほんとに理由も分からずコムイに引き摺り回されていたのだから適わない。せめてこの人は理由くらい提示してから検査を始めるべきだと考えて、そういえばアレンもコムイに振り回されてたよなと引き攣った笑いが零れた。ほんとに適わない。背中ばっかり診られるものだから、オレは一瞬ヘルニアにでも罹ってしまったのかと疑って不安になるほどだった。(こんな勘違い誰にも言わないけど!) 「シンクロ率92、か。ちょうど2倍とは恐れ入るよ」 その数字を最初に聞いたときは、やはり自分の耳を疑った。それでもヘブラスカが計ってくれた数値なのだから間違いはないだろうと完結し、そしてよくよく考えてみればイノセンスが使いやすくなっているのも事実なのだから疑うことも無かったなと呆れた。 強くなるのは、悪いことではないし。 そしてもう一つ、コムイに指摘されて初めて気が付いたことがあった。イノセンスが半分ずつ埋まっている右手と背中に、何やら黒い紋様が浮かんでいるということだ。うまい表現はできないが、右手は十字架が規則性なく歪んで剣のような形になっている紋様。背中は残念だが自分で見ることができないので想像の域を超えない。(舟の上で神田が見ていたものはどうやらこれだったらしい。) コムイが何度目か分からない読み返しを始めたのを空気の揺れで感じながら、オレはじとりとその右手を眺めていた。ずいぶんと自己顕示欲が強くなったじゃないかレグルス、と呆れを含んだ苦笑いを飲み込んでそういえばと思い出したことを勢いよく吐き出す。 「あっそうだコムイ、リナリーは!?」 「リナリーは今アレンくんとドイツに行ってまーすv」 「ドッ… なっ何故オレは帰ってきた…同じ国に居たのにッ…」 片手で頭を抱えると、コムイがくすくすとおかしそうに笑った。適わない、とは思うけどこの人のこういう笑い方は決して嫌いではない。 不意に持っていた書類をぱさりと机に置くと、彼はその書類に目を落としながら読むとも読まずに オレへこんな問いかけをした。 「くん、任務は辛くない?」 急になんだ。 はたりと動きを止めたが、とりあえず茶化す雰囲気でもないようなので片手を頭に当てたまま視線を送る。 「 「……そうか…」 ギッ、とコムイが椅子の背凭れに身体を預けた音を聞く。暫時そのまま見詰め合っていたが、彼の意味ありげな視線に決して気の長くないオレは痺れを切らして、コムイのありがたい気遣いを無碍にする行為に至った。「悪いけどさ、」 「死なない覚悟はもうできてるんだ」 両手を膝の上に構えてまっすぐコムイを見つめると、決して表情を崩しはしないが彼の瞳に少しだけの悲しみが滲んでいることに気が付いた。オレが今まで、理解できなかったもの。もしかしたらコムイは今まで、仲間が戦地に赴くたびにこんな目をしていたのかもしれない。 「(知らなかったな)」 知らなかったオレは、多分これからもそんなコムイの機微には知らぬ存ぜぬを突き通す狸になるのだと思う。 「恐れ入るシンクロ率って、つまりそういうことなんだろ?」 「…すまない…」 「なんで謝るかな、今まで散々守ってくれてたくせに」 ソファから立ち上がって書類に目をやるふうに俯いたコムイの掌にそっと触れた。困ったような笑顔で顔を上げた彼に、「あんたはさっきみたいに飄々としてるべきだ」と茶化すと、コムイはやっぱり困った笑顔でオレの掌をぎゅうと握り返す。「…少し、に似てきたかな…」予想だにしない返答ではあったが、心の中で崇めてやまない兄に似ていると言われては悪い気のする理由などひとつも見つからない。 コムイはオレの手を離し立ち上がると、ゆっくりとオレに向き合った。 「きみなら、きっと彼を救えるよ」 「もちろん、そのつもり」 ――仇は、必ず討つから。 図らずとも背筋が伸びたので、そのままじっとコムイの目を見つめる。オレが察せずとも例の機微はもうなりを潜めていて、ああ流石だなと感心せざるを得なかった。きっとオレが見たのは幻覚か勘違いの代物だったんだ、そりゃそうだよな、だってこの人は鋼鉄の精神力を持ってる天下の室長様だ。 「・、きみをエクソシストとして、医療班から解任します。」 だから司令室に響いたその意味に、仮初め班長ことは、ただ頭を垂れるだけだった。 |