「…っは、っはぁ、」



 オレはつまり6年間しかまともに生きていなかったわけで。累算して20年使い込んだ身体ではあるけど、このオレ自身(むしろ先ほどまでのオレといったほうが正しいのかもしれないが)の記憶はその身体が味わってきたヒストリーの半分にも満たないのだ。 自分で言うのもなんだが、随分と凄惨な生い立ちだったようで、今まではずっと思い出したい思い出したいと駄々をこねるように願っていた小さい頃の記憶は、はっきりと思い出した今では『忘れていたほうが幸せだったな』というほどのものだった。

その中でも一番辛かったのが、自分が死んだという感触を受け入れなければならないこと。
ようやっと受け入れられた今でも、アレを思い出すとぶるりと身体が震える。

心臓の病気で、くるしい苦しいと息を細めていた自分を走馬灯のように眺めて、そうしてその後に訪れた死後の数分間を覚えている。何も無い暗闇。上下左右も奥行きも、自分の意識や身体さえも存在しない、ただのブランク。
それを思い出すつい先ほどまで、死ぬことに対しては鈍感な体質も相まって『死ぬことなんて怖くない』と考えていた自分を叱り付けたい。
あの暗闇を思い出すだけで震えるほど怖いのはたぶん、教団の皆の暖かさを知ってしまったから。死んだら戻れないということを、改めて実感したから。

 過去の記憶が一気に埋められたせいで脳が少し疲れているのを感じたが、オレの気分自体はふしぎと爽やかなものだった。
早く教団に戻って、いろいろな人と触れ合いたい。
そのためには早く、任務を遂行させなければ。




「…?」



 聞き覚えのある声に、パッと顔をあげる。 高い位置で結った髪を風になびかせていたのは、先ほど別れた神田だった。訝しげに地に膝を落としたままのオレを見ている神田に今すぐ飛びついて『ユウくん!』とでも叫んでやりたかったが、今はそれよりも任務を早くこなさなきゃなと思い笑いかける程度に収める。
ざり、と砂を踏みしめてこちらまでやってきた神田が、何をしてるんだと目で訴えかけてから、呆れたように手を差し出した。 おお、珍しく優しいなと思わず笑顔になってその手に掴まる。


「…ありがと…うっ!?」


お礼を言いかけたとき、ぐいっと手を引っ張られてそのまま神田の腕の中に飛び込んでしまった。
突然の展開に疲れた頭が勘弁してくれとクエスチョンマークを散乱させ、神田の団服に埋まっていた顔を上げると思い出したように息を吸い込む。その反動で、鼻腔が微かなムスクの匂いを意識の上に届けてきた。


「?、甘いにおい…」
「バカ、離れろッ!」
「、へ」


神田の小さな叫び声がどこからか聞こえてきたのを感じて、思わず真正面の神田を見上げるが彼は口を閉じたまま微動だにしていない。「…?」甘い香りに不安が駆られて、思わずきょろきょろと辺りを見回すと――真正面に居る神田越しに、木の幹に手を付いて息苦しそうに呼吸をするもう一人の神田が目に入った。


「!? か、神田が二人…?」
「速いね、撒いたつもりだったんだけど」
「チッ!」


事態が把握できずに、目の前に居る神田と木の幹から六幻を構えてこちらに向かってくる神田をきょろきょろと見比べる。頬にできた擦り傷から服の汚れまで、まったくと言っていいほど同じだった。
そんなことをしているうちに向かい合って抱きしめるようにしていた神田がオレの身体をくるっと回転させ、向かってくる神田を防ぐように両肩をぎゅっと押さえる。


「いいの?ちゃん盾になっちゃうけど」
「知るか!」
「(マジで!?)」


とりあえず、今後ろでオレを動けないようにしている神田が偽者だということはなんとなく分かった。
本物の神田の発言に少なからずショックを受けている間に、彼は威嚇するように刃を振るう。「うわ!」頭のすぐ上を翻るそれに身を縮こませたが、微かに斬撃を受けたらしい髪がパラパラッと地面に落ちる。神田のために大事に伸ばしていたつもりなので、それをその相手に切られるというのはなかなか堪えた。息を詰まらせたが、逆にその遠慮の無さが神田らしいなと安堵してしまうあたりオレはもう駄目かもしれない。


「容赦ないねー、怖い怖い」


チャキッと六幻を構えなおす神田を見て、思わず後ろにいる誰かに賛同してしまった。
そして、そこでその後ろに居る人物の声が少し高くなっていることに気が付く。「…?」思い切り首を捻り上げて、まず驚いた。その姿が、一転して灰褐色の肌を持つ女性に摩り替わっていたからだ。
――そして、それより。


「…?」


そう、雰囲気がに似ていた。
小さなオレの呟きを聞き取ったらしい女性が、神田から目線を外すとオレのことをちらりと、愉快そうな笑みを浮かべて眺めてくる。「へーえ、妹のキミから見ても似てるんだ」にやにやという表現が相応しい笑顔はに似つかなかったが、意識してしまうと声すら同じに思えてくる。ぽかんと口を開いて唖然としていると、喉元に巻いていた包帯がプツッと切れる感覚についで、滅多に露出しないそこに何やら冷たい刃物が宛がわれている感触を覚えた。


「間違えないでね、ちゃん。私にはメビウスという名前があるのだから」
「…メビ…」
「そいつはノアだ!」
「……ノ…、?」


神田の嫌気がさしたような表情を見た後、もう一度顔を持ち上げてメビウスをじっと観察する。
さらっ、と彼女の前髪が揺れると、その額には十字の傷跡が覗く。
それは見間違えもしない、ノア特有の聖痕。


「………レグ、ルスッ!」


ぞわぁっ、と全身が粟立つのがわかる。ノア、ノア、ノア?、心の中で神田の言葉を反芻し眉を顰めるころには、イノセンスの名前を叫んで毛を逆立てる猫のように3対6枚の翼を発動させていた。 ランプのように燃える羽はアクマやノアには熱く感じるのだろう、後ろのそれが緩く舌打ちをして後ろに飛び退く。無意識のうちの威嚇だった。
飛び退いた彼女が着地する前に、右手を微かに動かして先のとがった木の杭を地面から浮き上がらせる。
「! 待て!」
宙に浮いたそれを引き寄せるように人差し指を動かすと、それは思い描いたとおりにノアの身体めがけて猛スピードに飛んでいった。神田の制止の声はちゃんと聞こえていたのだが、その言葉の意味がわからないくらいにオレは無我夢中だったのだ。 彼女の腹に、木の杭が貫通するまでは。


ドッ


と鈍い音が響いて、ノアの肉に食い込んだ杭を荒い息で見つめる。
暫時の沈黙のあとに地に倒れこんだのは、無傷のはずのオレだった。


「…っはあ、?」


お腹が熱い。心臓の音がうるさい。なんだろう、と思いそこに手を当てると――血がべっとりと染み込んだ。自虐的だと言われるかもしれないが、自分の身体に起こった異変がどうしても確かめたくて思わず腹をまさぐると、直径にして10センチくらいの穴が開いていることがわかる。

「…なんでオレが?」

 痛いというより熱い。体質のおかげで命に別状は無いだろうが、決定的に血が足りない気がしてきたので後で神田にもらおうと考えるわりと冷静なオレを見て血相を変えるのは神田の方だった。文字通り飛んでくる神田を見て、そういえば、彼はさっきどうして静止をかけたんだっけと今更ながらに思い出す。
目の前ではノアが、困ったように笑いながら自分の身体に刺さった杭を何も問題は無い、とでも言いそうな雰囲気でズルッと抜き取る。「見かけによらず血気盛んだね」と笑いかけてくる顔に吐き気を覚えた。顔、というよりは存在自体をもうオレは嫌悪の対象としてしまっているのだろう。嫌悪するというのはあまり心地よい感覚ではないのだけど、それでもに引導渡したアクマやノアへの憎しみを忘れていないのに気が付いて嬉しかったりもする自分はちょっとおかしいかもしれない。

 ノアを睨みつけたままそんなことを考えていると、倒れこんだオレを庇うように神田が屈みこむ。お腹の穴を見て、かすかに眉を顰めると彼の手がそこに触れる。「いっ、いてっ」自分でいじるのと人に触られるのとじゃ準備が違う。思わず声を上げたオレに、神田は微妙な面持ちのまま呟いた。


「…どうせ奴に攻撃するなら、イノセンスでやれ」
「こうなるから?」


地面に手を付いて立ち上がる。オレの問いに神田は頷くと、六幻を構えなおして目の前のノアに向き直った。こちらの様子を見守るようにぼうっとしていた彼女は、そんな神田に気が付くと組んでいた腕を解いて「はあ」とため息を吐く。
それにしても、何かがおかしい。
走って六幻を振りかぶる神田をひょいと交わしては、少し後ろに飛んで逃げるノアをまた神田が追う。刃が避けきれないときは腕を振り上げると、何やら六幻とその腕の間でバチッと発光が起きて神田が少しだけ後ろによろけ、リカバリーする。
相手に戦う意思がない、というか。
じっと二人を見つめていると、神田の六幻がノアの頬を掠った。軽い切り傷から血が垂れたのと同時に、神田の頬にも裂傷ができたことに目を見開く。イノセンスならダメージは与えられるが、他のものと同じように跳ね返ってもくるのか。
それは、それじゃあ自分も死ぬくらいの覚悟が無ければ殺せないじゃないか。
神田が致命傷を避けるように足や腕ばかり狙っているのは、つまり動けないようにして捕らえる為。、なのだということに、残念ながら今の憎しみばかりが先立っているオレは気が付かない。

ただ命の供給源神田がいるなら、これはオレが戦ったほうがリスクが少ないと思った。

しかし、これまでレグルスで直接的な攻撃をしたことがないことにはたと思い当たる。後援や救助でしか戦地に回されたことも無い。 攻撃手段がないなら、何か武器を作ればいいのか? 物を作ることなんてレグルスにできるのか?
(今の私になら、できる)
心の声が誰かと重なる。きっと、あの子だ。

「…」


 六幻を操る神田を凝視した。
神田はスピードがあるし、力もある、身のこなしもすごい。刀という武器は素人目からでも神田の特性にぴったりな気がした。

なら、オレは?

神田は刀、リナリーは靴、クロス元帥やは銃、デイシャは球、マリは弦でティエドール元帥はノミ、…違うな、どれもオレには合わない。そういえばラビは槌だったなと思い出して、ああ、これが一番近いかもしれないと考えた。
持ち前の怪力と掛け合わせて、どんな相手でも潰し壊せるような。

 そこまで思い描いたとき、背中に灯したままの羽の一対がぐにゃりと形を歪め始めているのに気が付いた。意識を逸らすと、フッと元の翼の形に戻ってしまう。 ああなるほど、と頭の中でイメージを推し進めるとランプのように燃えていた羽がボウッと音を立てて一瞬で燃え盛り、消える。 消えた代わりに何か棒のようなものが二本見えたので反射的にパシッと掴むと、それはオレの背丈ほどの大きな柄(え)だった。
柄の先には、ぎらぎらと鈍く光る黒い鉄球のようなものが付いている。オレの頭の二倍はあったが、重さは感じない。
モーニングスターのようなメイスだった。


「できた!」


小さく歓喜の声を上げたあと、残った二対の翼を翻して飛び上がる。2枚の翼を使って武器を作っているせいか、普段よりスピードが落ちている気がしたがそれはまあ仕方が無い。競り合いを続ける二人の上に行くと、フッと力を抜いて宙に浮いている状態を解く。鉄球の重さで下に落ちていくのを感じながら、このままノアを潰してしまおうと考えて「あっ」と思い出した。


「神田どいて!」
「 なっ…!」


ズズンッ


力いっぱいイノセンスを振り下ろすと地鳴りのような音を立てて地面が揺れる。小さなクレーターから身体を起こすと、二本の鉄球の下には何もいないことに気が付いてきょろきょろと辺りを見回した。 左の方で息を荒くして六幻を地面に突き刺している神田は、驚いたようにこちらを見ていたのも束の間ギッとオレを睨んだ。 心の中で謝りながらそれより今は、と思い右に顔を向ける。 そこに居たのは驚いた様子のメビウスだったが、まだ余裕があるようにスーツの袖を叩いている。

「くそっ」

イノセンスを持ち上げて地面を蹴る。メイスをノア目掛けて振り下ろしたが、ミス。
一本のそれを避けられたらもう一本、というように攻撃を重ねていくが傍目で見ているよりも彼女の身のこなしは鮮やかで間一髪の部分でやはり避けられてしまう。


「当たったら痛いじゃ済まないね」


引き攣った顔でそう述べるノアに、「そういう風に作ったんだよ」と吐き捨てる。振り下ろし続ける単調な動きにノアも慣れただろうと思った頃、突然オレはメイスの一本を横に振るった。ブンッ、という鈍い音に目を見開くノアへさすがにこれは避けられないだろ!、と睨みを利かしたが――彼女はにいっと笑った後、鉄球を受け止めるように掌を施すと――その二点間でバチッ、と発光が起きた。

「―――ッうわあっ!」

その発光の後、オレは勢いよく後ろへ吹き飛ぶ。状況もろくに理解できないままギリッと歯を噛み締めると、メイスをいったん上に放り投げてから地面に手をつき、そこを基点にしてバック転のようなことをした。ちょうど立ち上がったときに少し前へメイスが落ちてきたのでそれをキャッチしながら、随分と離れてしまったメビウスを見た。彼女もまた反動で倒れこんでいたが、なんとでも無さそうに立ち上がりスーツについた土を払う。ふう、とため息を吐くと彼女はあたりを見回した。


「困ったな。私は遊びにきただけなんだけど」
「…遊び?」
「うーん…そろそろ終わる頃、かな」
「何が!」


カツカツとヒールを鳴らしてこちらに向かってくるメビウスに、オレも走り向かう。タイミング違いに振り下ろした鉄球が地面に当たってドドンっ、と音を立てる。気が付けばそこかしこがクレーターになっていた。それでもやはりそのクレーターにノアの姿はなくて、あろうことか彼女はオレのイノセンスを避けた後その鉄球の上にフワリと飛び乗った。

「!!!」

ぎょっとしてイノセンスを振り上げようとしたオレだったが、灰褐色だったメビウスの肌が白く戻っていくさまに思わず面食らって動けなくなってしまった。愛着も執着もありすぎる、栗色の髪と空色の目。

「…、あ、」


思わず震えて立ち竦んでしまう。やめてくれ、卑怯だ、その姿に攻撃なんてできない。
目じりから熱いものが零れ落ちそうなのを必死でこらえると、くすりとみたいに微笑んだメビウスが握り拳でオレの頬を殴り飛ばす。ガンッという衝撃と瞳の奥から揺れた景色に、しばらく何をされたかわからないでいた。
 ザッ、という音がして目線だけその音の発信源へ遣ると、殴り飛ばされたオレと場所を入れ替わるようにしてそこに神田が佇んでいた。六幻を振り上げた格好でいるということは、既に相手を切りつけた後らしい。よくよく目を凝らすとノアのスーツの肩元が切り裂かれて、そこから覗く肌には真新しい裂傷と赤い血。 それでも彼女は焦ることなくフ、とひとつ微笑むとパチンと指を鳴らして宙に浮いた――、いや、いつの間にそこにいたのかはわからないが、突然現れたアクマに持ち上げられていた。


「自分の目で確かめるといい」


アクマの姿に獲物を構えると、ノアはそんなことを言って楽しそうに村の方角を指差す。
ここに来るまで、相当数を片付けてきたというのに――そちらの方角の空には小さなボール型のアクマがちらほら見て取れた。うろうろと単調な動きで銃筒の角度を変えると、ダンダンッ、とけたたましい音を立てて地上に弾丸を撃ち込んでいる。森の木が邪魔でよくは見えないのだが、時折パチッと火の粉が飛んだり、黒い煙がもうもうと立ち込めていたりもするところを見ると、

燃えているのか?
何が?
何が、だなんて、あちらの方角には民家くらいしかないだろう。


「――ッ!」


思わず息を呑んでノアを振り向く。彼女はそんなオレや神田の苛立ったような反応に満足げに頷くと、自分を抱えているアクマに何か囁いたあと猛スピードでアクマと空に飛んでいった。

「…待てっ!」


反射的に背中の翼を翻そうと構えたが、それはあえなく村の方角からやってきたレベル2に行く手を阻まれたことから叶いはしなかった。



***


 結局のところ、焼け焦げた民家に人の姿はひとつも無かった。唯一無事であった家屋からも生活の匂いは感じられず、少しだけ残っていたものと言えば殺気と血の匂いのみであったので、もしかしたらこの村全体の人間がアクマと摩り替わっていた可能性もある。立地的にも隔絶された土地のため、情報も遮断されていたのだろうか。レオンが報告を受けたという執事も、もしかしたらその時すでにアクマだったのかもしれない。
そんなことをコムイとの通話で交わし終わった神田は、ゴーレムの通信をいささか乱暴に断ち切ると、ふう、と溜息をひとつ吐き出した。
 神田もも、火が燃え移ってはいたものの半壊程度で済んだ彼女の家の中で今やっと傷の手当てを終えたところだった。森の中で向かってきたレベル2を二人で挟みこむように撃退して、家屋に砲撃していたレベル1を手分けして破壊する。二人とも手負いではあったが、が急激に力をつけていたようだったので神田も気を遣う必要なく自由に動け、むしろいつもより速いペースで殲滅は行われた。

 廊下で壁に寄りかかったままぼんやりとしていた神田は、おもむろに自分の手を首筋へ宛がった。じくりと痛むそこには牙で貫かれたような痕がある。に血を吸われたからだった。 いつもならば奪い取られる血の量もほんの少しで貧血にもならない程度なのだが、今回のあいつは戦闘中にやたらと血を流していた気がするから仕方ないのかもしれない。そんなことを考えた神田はもう一度溜息を吐く。どうしようもなく身体がけだるかった。
すぐ隣の扉を開いて室内に足を踏み入れると、ベッドの上でいつになく大人しいが窓の外に身体を向けて座り込んでいた。普段うるさい女なだけにどうにも不気味でペースが狂う。暫く様子を見るようにその傍らに立ち止まっていたが、気付いているのか気付いていないのか神田の方に目も向けないにしびれを切らして神田は「おい」と声をかけた。パッと彼のほうに顔を向けたがきょとんとするのを見て、何か話しかけようと思っていた神田は思ったより話題が出てこないことに困っていた。そういえば普段といえばばかりが賑やかに話しかけ、神田がそれを軽くあしらうと言った関係が定着していただけに仕方が無いといえば仕方が無かったのかもしれない。
 ふと窓の外に目をやって、神田はまだ外で雨が降り続いていることを知った。偶然降ったこの雨が、燃え盛っていた民家の炎を消したのだ。


「…雨が降ってよかったな」
「…………うん」


神田がボスッと乱暴な音を立ててベッドに座り込むと、その発言に他人にわからない程度で目を見開いたは微笑んでからゆっくりと頷く。神田がそんなことを言ってくれたのが意外でくすぐったかった。

ざああ、と窓の外で雨が次々と流れ落ちて行くのに対し、室内は驚くほど沈黙が流れていた。いつもは気を遣わない相手同士なだけに落ち着くはずの沈黙が、どうにも今日は圧し掛かるように重苦しい。多分その原因はこの女の不気味な大人しさにあるのだろうと、神田がちらりと視線を送る。考え込むように窓の外に遠い目を向けていた彼女を見て、様子を伺うようにしていたはずの神田はいつのまにかまじまじと無遠慮にを観察し始める。上から下まで何度も往復してはみたが、それらしい変化は何も無い。ただ、いつもより大人しいだけだ。
さすがにそこまで観察されると居心地が悪かったのか、は沈黙を保ったまま神田を見上げる。ぱちりと目が合ってもやはり無遠慮に見つめ返すだけの神田に今度はが戸惑う番だった。「な、なんだよ」窓の外に向けていた身体を神田のほうに向きなおして視線での尋問に彼女は口で問い返す。 さすがに神田もそう問い掛けられると視線を留め、口を一度開いたがその問い掛けにどう応えていいのかもわからない。感じる違和感は言葉にできるほど簡単なものではなかったので、他に仕様も無く彼はとりあえず抽象的な事実を選んだ。


「今日は随分大人しいんだな」


自分の故郷がこんな有様なのだからそれは大人しくもなるだろうが、こいつはそんな一般論に当てはまるような女ではないはずだった。はその神田の言葉に先ほどの視線尋問の理由がようやっと汲み取れたのか、彼とは真逆にすっきりとした苦笑いを浮かべ、神田の肩に頭を寄りかからせる。違和感に少し緊張気味な神田は自分の左手がそんな彼女の肩を抱くかどうかに困っているのを見つけ、なぜこんな女相手に緊張しなければならないのだと押し付けるように肩を抱いた。そんな神田の行動もから見れば十分イレギュラーになり得たのだが、彼女はやはり嬉しそうに苦笑いするばかりで、何度か口を開いたり閉めたりとどう言葉を返すべきか迷った挙句


「だから雨が降ったのかもね」


という何とも変梃な返答をした。


 実際のところ、自体は神田が自分のどこに対して違和感を感じているのかはわかっていたのだが、いくら考えてもどこからどう話を切り出していいのか思いつかなかったのだ。森の奥の自分の墓、もう一人の自分、そして全てを吸収して記憶等を取り戻した今の自分。言葉を選び間違えれば何を言っているのかわからなくなるだろうと思考はぐるぐると悪い方向へ逡巡するばかりだった。
 だがそんなの懸念をよそに、神田はの口からそれらしき事を話されればすぐに理解はできるのだ。もう何年か前にの経緯は彼女の主治医から伺っていたから。

空回りの沈黙がそわそわと音を立てていて、それが大音量になりそうになったころパァンッ!と別の大きな音が室内に響く。苛々が今にもピークに達しそうだった神田は眉間に皺を寄せてその発信源に目を遣る。それはが自分の頬を自分で思い切り叩いた音だった。あの怪力だからやった本人も相当痛かったらしく少しだけ涙目になりながらは神田の肩をガシッと掴んで眼光鋭く見据える。


「もう拉致明かないから最初から全部話すぞ!」


神田にしてみればそのの言葉も『何を』という状態ではあったが、ようやっと彼女が普段に戻った気がしてふっと緊張を解く。目で続きを促すと、視線を落ち着かないようにあちこちにやっていたがはっと息を呑む。


「わ、私さ」
「…“私”?」
「!! オ、オレ!」


神田が眉をひそめた上に、本当に深刻そうな声で一人称を確かめるものだから、なんともないことを言っただけなはずのはかなりのトラウマを心に負う羽目になった。少なくとも神田の前ではもうその一人称を使う日は来ないだろうというくらいには。



「…記憶が…、」



自然と内緒話のように小さくなっていく声だったが、その内容に神田は目を見開いた。




「全部思い出したの…だよ、ユウくん」