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夜の色は何色かと尋ねると、たいていの大人は不思議そうな顔をしてから悩むように「黒だ」といった。 たしかにその日の夜はとても晴れていて、空は輝く黒色の中でちらほらと白い星が瞬いている。 そんな空の下で瞬きすると、呪われの左目が誰かの冷たい手で目隠しされているのに気が付く。 ぼくは、世界の出来事をいま、右目だけで捉えている。 マナの形見を抑えている青白い手は小さく華奢で、恐らく若い女性のものであろうことは推測できた。 ただその手が氷のように冷たいので、僕はそれが人間のものではない気がして不安になる。左胸の中身がそろそろと落ち着かないまま青白い氷を擽ると、それはサァッと粉砂糖のように風に紛れてなくなった。 常駐していた暗闇が融ける。 ああやっとぼくは、両目で世界を視る事ができるんだ。 ――左目が見せる夜空は暗いと理解できるくせに白色で、星の瞬きは黒いばかり。黒い月に照らされた足元は矛盾しているかもしれないけれどたしかに白色で、僕だけがその世界で色づいているようだった。(…、)(色が反転してる?) 「 ?」 じゃりっ、と砂を踏む音が後ろから聞こえてぼくは振り向く。 それがただの人間だったのなら僕は驚かなかっただろう。 しかしそれは、生憎よくわからない不可思議ないきものだった。シルクハットを被っていて、纏う服はぼろきれ。肌は抜けるように白いが、目や鼻の部分は窪み落ちて真っ黒だった。 ぼくは実物の髑髏というものを見たことはなかったけど、まさにそんなような感じ。そうとしか形容できやしない。 「…タスけテ…」 髑髏が、落ち窪んだ目から涙を流す。 彼は鎖でつながれていた。 ――夜空が白い世界は、ひどく背徳的だった。 背徳的なその光景は、幼い僕の心を惹きつけるには十分なほどで、ついにはどきどきと動悸がして立ち竦むことしかできなくなっていた。 「…助けて…」 白い骨が何回もそう呟いて近寄ってくるのを見て、どうしようもなく抱きしめてやりたい気分になった。 骨が、ゆっくりと近寄ってくる。(布切れの音も知らん振りで、ぼくらは見つめあった。) 骨が、まるで子供を叱り付けるように腕を振り上げる。(落ち窪んだ瞳から、視線を逸らせない。) 骨が、眉間を歪めて涙を流す。(ぼくは、立ち竦んでいる。) (ぼくは、ぼくは、…ぼくは?) 白い世界はそこで終わった。僕は、死んだのかもしれなかった。 「…ねぇさん〜…」 今思うと、きっとあの頃のあの世界は僕の不安が作り上げた夢だったんだろうなと思う。マナを壊して師匠に拾われて、アクマの魂が 白い世界の夢を見るとどきどきと動悸が止まらなくなっていたものだから、僕はそのたび毎夜のようにねえさんのいる部屋のドアを叩いた。ほんとに、ほんとうに、本当の姉のように慕っていた。師匠があんなだったから、少しだけ誰かに甘えたかったのかもしれないけど。 ドアを開けると、そっと扉に抱きつくように中の様子を伺う。 「……アレン…?」 部屋の中は外と同じく真っ暗で、姉さんは僕の名前を呟きながらベッドから身体を起こした。寝ていたのに、また悪いことをしたなと本心とは違うところで罪悪感を感じる。 真っ暗な部屋で、姉さんの白い髪からパタパタと、何か鳥のようなものが翼を翻して飛んでくる。師匠の持っているティムキャンピーと似たデザインのゴーレム、アンジェラだった。あまりにも勢い良くぼくの目と鼻の先まで飛び出してくるものだから、思わずドアと一緒に後ろへ下がる。キィ、金具が突然の揺れに抗議の声をあげた。 「いいよ、入って。」 の言葉とともに、アンジェラがぼくの髪の毛を引っ張り始める。「いたい、いたいよアンジェラ!」困った声を上げても白いゴーレムは引っ張ることをやめなかった。ようやっと姉さんが座っているベッドの横に腰掛けたところで、アンジェラは彼女の頭に戻っていく。 「どうしたの?」 毎夜のことなのに、姉さんは毎回ぼくにそう尋ねていた。 「…眠れないん、です」 そうして何度目かわからない返答を僕は口にする。 すこしだけ情けない気持ちもあったが、彼女の冷たい手のひらが赤ん坊を撫でるような優しい所作でぼくを撫でたので、すぐにどうでもよくなる。細い肩に頭を寄せると、頭の上で滑っていた指先が僕の肩を抱いた。 華奢な冷たい指先をみて、先ほどの夢にデジャヴを感じる。 ――ああ、ああ。(マナを目隠ししていたのは、彼女だったんだ)。 「こわい夢でも、見たのかしらね」 その"こわい夢"に、姉さんはまさか自分が出ていたなどとは思ってもいないだろう。風に紛れて消えてしまった彼女の手。ぼくが崩した、粉砂糖のような氷の手のひら。だんまりとしている僕を見て、姉さんの指先が慰めるように肩の上を踊った。規則正しい指の旋律に、ぼくはぼくの心臓も、呼吸のリズムさえも安寧な支配下におかれた気分に陥る。 「…アクマの夢を見て、居た堪れなくなったんです」 「うん」 「こんなところに居ちゃいけない気がして、早く助けてあげなくちゃって」 とても寂しい目をした髑髏だった。夢の世界で抱きしめてやれなかったのがとても悔しくて、ぼくの目頭が少しだけ熱くなる。零れた嗚咽を掬い上げたねえさんがぐいと僕を抱きしめる。ほんとうに冷たい氷のような肌だったけど、ぼくはこの体温がどうしようもなく好きだった。この人は、落ち着く。 「――そうね、早く壊してあげなきゃね」 ちらりと彼女の顔を見上げると、薄紅の小さな唇がほんのすこしだけ微笑んでいるのを発見する。姉さんは、あまり笑わない人だった。口元は笑っているのに、瞳のスカイブルーはいつだって悲しい色から動きやしない。心の底から笑ってくれればいいのにと日ごろ常に思う。だって、それはきっと綺麗だ。 「じゃあ早く強くならなきゃ」 「…はい、」 「涙を我慢する必要はないわ。男の人はね、大人になったら泣いちゃ駄目なのよ。アレンは今しか泣けないんだから」 ぽんぽんと跳ねる背中の手は途方もなく優しい。僕の目からはどうしようもなく涙が出てきてしまう。 「明日の朝はアレンの好きなものを作るからね」 「…はい」 「ほら、寝よ? 朝が来ないよ」 布団をめくりあげてベッドに滑り込んだ姉さんが、白いリネンをぽんぽんと叩いた。シャツの袖で涙を拭ってから、僕も微笑んで敷布に寝転がる。なんとなく心寂しいものを感じて、姉さんの寝巻きの裾をきゅ、と摘むと、彼女は呆れながらもすこしだけ微笑んでくれた。 「もう。私、どこにも行かないわ」 「…?」 だから教団にたどり着いたとき、にわかにも信じられなかった。 姉さんが僕のことを忘れているなんて信じられなかったし、信じたくなかったと言う方が正しいかもしれない。 でも僕は、 「ごきげんよう。初めまして!」 彼女が信じられないくらい眩しく笑ったから、 「アレン? いい名前だね」 瞬間でさび付いた僕の失意なんて、取るに足らないことだと想ったんです。 *** 「あれはDIDですよ」 「DID?」 「解離性同一性障害。 信じちゃいなかったけど、二重人格とか言うじゃないですか」 4年ほど前、風邪を引いたリナリーの薬を取りにきたコムイが、医療班の班長室で書類と奮闘していたになんとなしに尋ね掛けたときのことだった。 入団したばかりの笑顔が絶えない子供のようなを見て、コムイはずいぶん前に一度目にした、病弱で泣き虫なのことを思い出して疑問に思っていたのだ。 最初は神田が連れてきた(正確にはコムイが連れてこいと任務を言い渡した)彼女を見ても、ただ人間こんなに性格変わるもんなんだなと呆気に取られただけだったのだが、の話を聞いていると、病気がちな彼女の主治医だったのことも、一度だけだが挨拶を交わしたコムイのことも、更には幼馴染と言ってもいい神田のことさえ覚えていなかったという。それはさすがに、物忘れというレベルじゃないだろうというのがコムイのきっかけだった。 「もともと虐待とかが原因で起きるらしいんです」 「ぎゃ、虐待!? そんなまさか、彼女のお父上が…」 彼女の父親には相当世話になっていたコムイなだけに、心外といった表情を見せる。それに対して、同じくその父親を尊敬していたらしいまでもが顔を歪めた。「違いますよ、室長もご存知でしょう? 「くん、それのせいで死んだって噂が上のほうで一時期あったよね」 「死んだのはもともと心臓がイノセンスのせいで、悪かったんですよ」 まあ、今はイノセンスのおかげで生き返ってはいますけど。がぞっとしないと言う風に顔を顰めた。レグルスというものは、咎落ちすることを前提とした寄生タイプのイノセンスだった。誰にでも寄生する代わりに、被寄生者の命を糧にして発動する。そのため、永遠の命というものを持つ吸血鬼となら抜群の相性なのではないかとは生き返らされたのだった。死者を呼び戻すという倫理に反するものではあったが、そんなものは公にならなければどうだって良い。それに、いつから生きているのかも知れない彼女の父親も吸血鬼だったし、一人も二人も変わらないというのが幹部の考えだった。彼らにとって倫理など、エクソシストの価値と天秤にかけてみればどちらに傾くのかは一目瞭然だった。 「…そういうこと、他の団員に話したりしてないよね?」 「幹部や班長たちには室長から言ってあるんでしょう?」 「あくまで助力の意味で、だよ」 「そういう意味でなら、俺も話した奴が居ます」 コムイは目を見開いてを見つめる。眼力は強かったが、それは決して相手を非難している目ではなかった。コムイはが内緒話を他人に振りまいて自分の博識に酔うような浅い男だとは思っていないし、はコムイが自分を信頼しているのを知っていたからだ。「…それは、誰だい?」暫時の沈黙の後、ふうとコムイが首を傾げるのを見て、は少しだけ迷うような間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。 「神田です」 *** 「…っ、うぇっ」 ただ単純に、不気味だな、とだけ思った。 生きている自分の名前が刻まれた墓が実家のすぐ裏にあるだなんて、そんな現実に直面したら誰だってそう思うだろう? そんな風に結論付けたいつものオレなら、『それだけのことだ』と何も気にせず他の場所にも散策にいけていたはずなのに、それができない。歩きつかれたとか億劫とか、そんなことを微塵にも感じていないはずなのに、オレの膝は情けなくも地にべっとりと貼りついていて動かないのだ。 ちらりと様子を伺うように墓石を見ただけで胃液が逆流するような感覚がこみ上げてくるものだから、視界を遮断するように上半身を折り曲げ 地面に手首を縫いつけた。 この際もうみっともなくていいから、落ち着こう。 すう、と大きく呼吸をして脳が揺れるような気持ち悪さを和らげようと試みた。、失敗。 くそ、と縫い付けた指先に力を込めると、その爪に柔らかい土が食い込むのがわかる。爪と肉の間に異物が這入りこむという不快なはずの感触は、かえってオレのことを落ち着かせた。 墓というのは間違いなく、死者のために建てるものだろう。 同姓同名なんて滅多にいないし、実家の裏にこれがあるのだから、十中八九オレの墓だ。 それならこの墓の下に死者であるは埋葬されているのか?と聞かれたら、オレとしてはノーと答える以外に選択肢は無い。だって、オレは今ここに居て、息をしてるから。 それならこの墓はタチの悪いイタズラか、と聞かれたら、きっとそれも違うだろう。 夢で見たあの日、兄貴はここにお墓参りに来ていて、そして後から追いかけてきてしまったオレを見て泣いた。よくよく思いだせばそれは泣いたなんてレベルのものじゃなくて、泣き縋ると表現しても許されそうなほど物悲しい雰囲気で、ヒステリックでもあった。そんなのことを想うと、今まで誤魔化すようにして避けてきた輪郭がはっきりと見えてくる気がした。石壁を素手で破壊する怪力も、人間より体温が低いのも、千切れた身体がすぐに再生するのも、人間の血を飲まなきゃ死んでしまうのも。ぜんぶオレが吸血鬼だからだ。 吸血鬼は、死んだ人間から作られる。 つまり、は一度死んでいるんだ、もう。 閉じた瞼の裏側で、光がパパッと瞬く感覚がした。 わかってたよ。 あの日以来、会う人会う人に「変わったね」と何度も言われたのだから、すこしぐらいは自分の存在を疑ってみたりした日もそりゃああったさ。 あの日までのはとても大人しく聞き分けのよい子で、器量も申し分なかった。何も覚えていないっていうのに、そんな過去の自分に訳も分からず劣等感を抱いて努力をしなければならなかったなんて、笑い話にもならないだろう。 『…きみが、理解できなかったからだ!』 ふと、ダグのそんな言葉が頭を過ぎる。 「…ごめんね」 ふ、と笑みが零れる。そういえば、オレに対してあんなに真正面から向かってきてくれたのは、ダグだけだった。 は泣き虫だった。というか、病気がちな小さい女の子だったのだから泣かなきゃやっていられなかったんだろう。痛いことや苦しいこと、悲しいことが小さな身体には抱えきれないほどあったに違いない。 病気知らずに元気で走り回って、笑顔で色んな人と触れ合えたらいいな、なんて。夢見たこともあっただろう。 ――ああ、そっか。 だから、オレは、 『思い出してくれたの?』 「…、ごめん、きみは、」 いつの間にか、空色の瞳をした少女が物憂げな瞳で心配そうに覗き込んでいる。幼い手のひらがゆっくり近づいてきて オレの頬にそっと触れると、彼女はすこしだけ笑顔になった。オレはそれを見て、今までに無いくらい悲しくなってぼろぼろと涙をこぼす。ただただ、胸がぎゅっと苦しい。 「きみは、オレだ」 地面をぎゅうと握り締めると、息苦しい悲しみはさらりと解けて消えていった。 小さな親指がオレの涙を掬い上げると、彼女は嬉しそうに頬を染めて頷いた。 『ひとつに、戻りましょう』 「…でも、そうしたらオレたちどうなるの?」 『きっと表面はあなたのままよ。ただ、イノセンスの扱い方や、昔の記憶とか、わたしの知識が入り込むだけ』 にこりと首をかしげて、彼女は手のひらをそっとオレの方へ手向けた。彼女の目を真っ直ぐに見てこくりと頷き、オレは自分の右手をじっと見つめる。 マテールでこの子が言っていた、オレが昔より弱くなったという理由をすこしだけ考えていた。 今までの話をまとめると、きっと彼女の知識が抜けてしまって、オレはレグルスの扱い方に関して全くと言っていいほど疎くなってしまったのだろう。オレ自体がレグルスよりも後の途中から生まれた意識なのだから、元々調和していた人格がどこかへ行ってしまって、きっと ちらりと空色の瞳をしたもう一人のオレを見上げて、ごくりと唾をのんだ。 右手を、彼女の右手にそっと重ねる。 ふわりという柔らかな風がどこからか吹いてきて、目の前のオレの姿がその右の指先から消えていった。居なくなった彼女を心配して立ち上がると、それと同時に心臓がどくんと波打つ。 「…っ!」 視界から脳の先まで何かが駆け巡っていくような感覚を覚えて、せっかく立ち上がったのにオレはまた膝を地に付けていた。これはなんだろう、いつだったか同じようなものを味わったことをオレは覚えている。 そう、それはまるで、走馬灯のようだった。 |