「メビウス様、メビウス様。」



 田舎の村には似つかわしくないほどの豪邸、その中の一室に私はいた。
小高い丘に建っているこの住まいの窓からは、高い建物も建造物も存在しない田舎ゆえに この地――トリスタンの景色を一望することが出来るのだ。 薄ぼけた朧月が闇夜の空に浮かんでいて、丘のちょうど前にある湖にささやかな月光を送っていた。 月の光を浴びた水面は、風に揺られるたびにゆっくりと表情を変えてゆく。 その湖のさらに向こうには、緩やかな曲線を描くダーク・グレーの山々が望める。
窓枠は額縁のようだった。どことなく懐かしい、絵画のような景色に 私の心が確かに癒されていくのをぼんやりとぼんやりと、ただ疑問を持ちながらも感じていた。


「…なに?」


私はゆっくりと窓から目を離し、にこりと笑った後に 目の前で跪く執事風の男に問いかける。 男は「はい」、と静かに返事をした後 用件を告げようとしたらしいが、その報告の手柄は突然の来訪者により奪われる。



「エクソシスト≠ェそろそろ来るらしいぜ?」
「ティッキー。 …来ていたの」
「懐かしいねー、この家」



 いきなり現れた2人目のノアに、執事風の男――レベル2のアクマ――は、恭しく頭を下げた後静かに部屋を去った。
きょろきょろと室内を見回すティキに、私はまたも疑問を抱く。「『懐かしい』?」「ああ、懐かしい」訝しげな声をあげる私をよそに、たしかにティキはこの部屋の勝手を知り尽くしているかのように歩き回り、やがてとある一つの写真立てに手を伸ばした。


「ここは――の部屋だったからな」
「 …ふぅん? それで、どうしてキミが懐かしく「あいつは俺の、唯一無二の親友だった」
「!」


依然 写真立てを見つめながら、寂しそうに語ったのは間違いなく『ノア』であるティキだった。
突飛な発言に私が驚いたのは言うまでも無く、暫時そんなティキのことを探るように見つめてさえいたが、――やがてバカバカしくて笑いが堪えきれなくなった。「フフ、はは、あははははは…! そう、そうなんだっ、」痙攣して少し痛くなった腹部を抑えると、笑いすぎて噎せこんでしまった私の方にティキは写真立てを置いて近寄ってくる。「おい、大丈夫かよ」呆れたように背中に手を当ててきたので、私は最後の咳をしたあと、そのティキの腕をぐいっと精一杯引っ張った。 少しばかり前に傾いたティキの顔が、私のすぐ前に迫ってくる。



「親友、殺したんだぁ…?」



 私にとってはこれ以上の愉快なことなんて無い、というくらい面白おかしい事実をティキに掲げる。 私の言葉に少し表情を曇らせたティキの腹部を ヒールのある靴で蹴飛ばし、その衝撃で壁と私の座っている椅子との中間に位置する白いグランドピアノに背中を打ちつけた彼のところまで静かに歩み寄っていくと、腰を落として彼と同じ視線になってから 彼の顎に指をかけた。


「キミは今回、表に出てきたらダーメ。」
「…理由は?」
「そんなこともわかんないの? そんなだから双子にバカにされるの」


鼻で笑ってぐりぐりとティキの肩を踏みつけると、制止をかけるようにティキが私の足首を掴む。 下から理由を尋ねるような視線が飛んできていることに気が付いたので、「…ちゃんにとって、キミは一番憎たらしい『仇』にあたるんでしょ?」と、ティッキーのことを見つめ返しながら問うた。 ――彼は不承不承にだが、静かに頷く。
 それなら、と私は腰に手を当てて呆れたように吐き捨てた。



「最初に出てくるラスボスが、この世界のどこにいるのさ」





***




『 ユウくん? そんなところで何し―――ッきゃああ!』
『げ』


 赤い絨毯の敷かれた長い廊下に、いくつもの本を危なげに積み重ねながら歩いている少女が 何も無いところで躓いた。『…何してんだよ』『ご、ごめんね、ごめんね…』 エクソシストの団服に身を包んだ小さな少年が、散らばった本を溜息を吐きながらも拾い集める。
ユウくん、と呼ばれた少年は、どこからどうみても神田の面影があって、――12歳くらいの神田のような気がするな。(兄貴が持っていた写真で見たことがある。) 躓いたほうの少女は、暖かそうなスカートに付いた埃を叩いてから、神田が拾った本を5冊ほど受け取った。


『そんなに持ってくれるの?』
『…また拾いなおすのも嫌だからな。』
『ありがとう!』


オレは完全に、この世界では「見えていない存在」のようだ。 目をきらきらと輝かせてお礼を言った少女の頭上――天井に背中がくっついているような心地だった――で、ただぼんやりとその二人の様子を観察しているだけの存在。


『それにしても、の奴はどこ行った』
『聞いてないの? 一旦教団に帰って、お父さんとお話をしてくるんだって』
『…何の?』


 ――尋ねられた少女は、鮮やかな空色の瞳をきょとんと見開いた。
…空色の瞳?
病弱そうな白い肌と、それよりも更に白いまっすぐな、腰までとどく髪の毛。


『…私の手術の話かなぁ』
『まだ治ってなかったのか…? この間もやったんだろ』
『なんか治らないんだって。 治しても小さな王レグルスが、食べちゃうんだって』

ああ、どこかで見たことがあると思ったら。
この子、マテールの診療所でオレに話しかけてきた子だ。
女の子は、寂しそうに笑うと ひとつの部屋の前で立ち止まり、静かに扉を開いた。

『じゃあ、死ぬのか?』
『うん。 死んじゃうと思う』

神田が後ろから、静かに問いかけた。 あまりにも抽象的すぎる問いかけと応答だったが、当人たちは真剣そのもので、――ただ見ているだけのオレの方まで、当事者のような錯覚に陥ってしまう。


『…死ぬな』
『え?』
『そんな風に諦めるなよ』
『……ユウくん?』

この子は誰なんだろう。
なんで神田と話しているんだろう。
どうして、小さな王のことを知っているんだろう。


なら、きっと大丈夫だ。』


   ―――どうして神田は、その子のこと って呼ぶの?






「どうして…」


 呟くと、明るい世界が広がっていた。
オレはソファの上に転がっている。(天井に浮いてなんかいない)。


「…夢かよ、」
「あれ、おはようございます。よく眠れましたか?」
「…くん。おはよう」
「すみません、今日から任務なのに手術オペなんて無理言って…」
「いいよ別に、――それよりさ、聞きたいことがあるんだけど」


 一人で寝たときの癖のようなものなのか、またしても自分の目元が涙で塗れているのに気が付き手の甲で拭う。 くんに尋ねかけると、彼は整理していたらしいカルテのファイルから目を離してこちらを向いた。 オレのいつもより真剣な表情を見てくだらないことではなさそうだ、とでも判断したのか、冷たい水をコップ一杯オレに渡すと、ソファに座っているオレに視線を合わすように屈みこんだ。「はい、なんですか?」


「オレ、くんに初めて会ったのは 教団に来た16の時だと思ってたけど、…違うよね?」
「……突然どうしたんですか?そんな「質問にだけ答えて」


何を言い出すんだ、と立ち上がりかけた彼の手を掴んで制止する。 くんは一瞬迷うような表情を見せた後、やれやれと観念したような表情を作った・・・


「違います。 初めて会ったのは班長が8歳の時です」
「じゃあ、ラビやブックマンとは?」
「それも初めて会ったのは8歳の時かと。 まあもっとも、ジュニアは名前が違いましたけどね」
「昔、オレ神田のこと『ユウくん』って呼んでた?」
「呼んでました」
「小さいころの、イノセンスのシンクロ率は?」
「聞いた話ですが、出生時に121%。それからどんどん落ちてます」
「クロス元帥のところに修行に行ったことはある?」
「…成り行きでしたけどね。」
「ありがとう。  …じゃあ、最後にひとつ。」


 ピッと人差し指を立ててくんを見据えると、彼は先ほどとは違い真摯な表情でオレの目を覗き込んでいた。

―――くんの応答を聞いていて、少しだけ確信できたことがある。
今まで尋ねたことはいずれも、誰か人に聞いたり、例の『おかしな夢』を見たりして得た情報なのだ。
つまり、アレンが教団に来てから毎日のように見る居心地の悪い夢は、いずれも本物。 恐らく、いつのまにかぽっかりと無くなってしまったオレの、14歳以前の記憶を埋めるための夢なんだろうと思う。 あまりにも急に色々なことを思い出しすぎて、頭がぎしぎしと軋んでいることさえわかるが、――それでもオレは、オレが何なのかと、先ほど夢で見た少女のことを知りたかった。


『最後に一つ』。その質問を静かに待っているくんに、思わず心臓がどくんどくんと震えている。 何か、聞いてはいけないような気がしてくるのだ。 これの正答を知ったら、オレが、オレの存在自体が否定されるような。 そんな気さえもする、静かな絶望の感覚。



「オレが14歳のとき、兄貴が、泣いたんだ…」
「…。」
「初めて見た表情かおだった。 ――初めて、オレに手を上げた。」


くんはじっとオレを見ている。
彼はきっと、オレよりも≠フことを知っているんだろう。


「…何が、あったの?」


恐る恐ると上目に彼を見ると、くんは暫時何かを考えるような表情を見せた後、やがて横にかぶりを振ったあと溜息を吐いて立ち上がった。 まるで質問の時間はここまでだ、と言われているようだった。



「すみませんが、答えられません」
「…え、」
「それがさんの、御遺志だと思うので」




***




 オレの家がある小高い丘の向かいには、それよりかは幾分か低いが 村の入り口と隣接している台地があった。 そこから下を覗くと、清閑な村の様子がよくわかる。
列車で何時間か下って着いたトリスタンの地は、もうすっかり夜の暗闇の中だった。 列車の中で読んだ資料の様子だと、住民は『白い獅子』とやらに怯えて、朝昼夜を問わず家の中でひっそりと篭りながら生活しているらしい。


「外には誰も居ねェな」
「うーん、明かりも無い。 夜だし皆寝てるのかな」
「それにしても…ここまで静かなのは、おかしくないか?」


たしかに神田の言うことも、もっともなのだ。
オレの故郷は、もともと土地を治める領主が吸血鬼、という特殊な所だったため、そこに住んでいる人も夜にだって活動している方が多いくらいだった。 昼に畑仕事、夜になると村に一軒だけある大衆酒場で昔馴染みと語らい合う。 太陽に恵みをもらいながらも、月の光に強い情緒を感じる。そんな人が多かった。
台地から飛び降りて雑草の生えた道を歩いていくと、一つの家屋のカーテンが開いてからその中の女性と目が合ったが、――すぐにカーテンを閉められてしまった。(何かに怯えているみたいだ。) 『白い獅子』に怯えているなら、人間を怖がる必要は無いんじゃないかと思うのだけど。


「神経過敏になってれば何だって怖いんだろ」
「…ごもっとも。 聞き込みはムリっぽいかな」


少しばかりモチベーションの下がったオレの頭を、神田がポンと叩いた。 叩かれた場所を擦りながら神田の目を見て、うーんと唸る。 このまま明日の朝まで調査を諦めてしまうのもいいが、何か出来ないものかと考え、ひとつだけ案が浮かぶ。


「うちの執事なら協力してくれるかもしれない!」







***







「神田、そっちは?」
「 誰もいない」


しんと静まり返った邸宅に残されていたのは、主の居なくなった屋敷を守る執事でもメイドでもなく、――ただの冷たい空気だけだった。

これは本当におかしい。

だってこの調査を依頼してきたレオンだって、この家の執事と連絡を取り合ってたから異変に気付いたわけだし、その後あの人自らこの領地に訪れて、この屋敷にも足を踏み入れたわけだ。『居ない』なんてことはあり得ない。 なら、何らかの理由があって『居なくなった』のだろう。


「…?」
「おい どうした?」
「神田…、これ見て。」


窓の傍に立って、神田を手招きしてから 一つの窓枠をなぞった。


「少しだけ埃が積もってる」
「…………お前は姑か?」
「違う!  …だから、ほんとに少しだけなんだよ」


壁に寄りかかって腕を組むと、神田が訝しげな目でこちらを見ていた。(なんか)(回りくどいって言われてるみたいだな、) オレは思わず苦笑いをすると、身体を起こして廊下を北へ進んだ。「つまりさ、少し前まではちゃんと人が居て掃除してたってことだろ?」居なくなったのは割と最近だということ。
つまるところ、つい最近、何らかの理由があって、この邸宅にいた人間は一人残らず居なくなってしまった。 避難したのか…―殺されてしまったのかはわからない。


「どこに向かってるんだ?」
の部屋」


神田の問いかけに答えながら、階段を上る。「なんか、ムスクの甘い匂いが残ってる」「ムスク?」「香水の匂いがするんだ、…の部屋のほうから」こっちの方は神田が調べたはずだから、人は居ないだろうが、何かがわかるかもしれない。

『俺が居ないときは、勝手に部屋に入っちゃ駄目だからね。。』

一つの扉の前で立ち止まると、脳に直接言葉が響いてきた。 もしかしたら、昔に言い聞かせられていたことなのかもしれないなと考えて、ドアノブを回す。



キィイ..









「 椅子の位置がおかしいな」
「………ピアノも少しずれてるよ?」


――つい最近、この部屋に誰かが来て、執事たちに何かがあったことは確からしかった。
神田と目を合わせてしばし沈黙しあうと、二人で一斉に溜息を吐く。「オレ、明日になったらなんとか聞き込みとかしてみる」「…俺は村を見回ってくる」「だね」とりあえずこの夜の現状では、何も話が進まないことに気がついたからだった。
 の部屋ってこんなだったっけ、とムスクの匂いに胸騒ぎを感じながらも見回すと、小棚の上にいくつかの写真立てが並べられていることに気がついた。全てに順々に目を通してからそのひとつに手を伸ばすと、入り口付近でオレのことを待っていたらしい神田が怪訝な顔でこちらに歩を進める。


「何だ、…写真か」
「オレ、神田に言ってなかったけど…が死ぬ前の記憶、ほとんど無いんだ」
「…?」
「大人は皆、知らなくていいんだって言う」



 手に取った写真には、小さいころの不機嫌そうな神田と笑顔のリナリー、今より表情豊かなくん、それと優しく微笑むと、その彼に頭を撫でられている、――オレと思わしき人型が居る。
みんな幸せそうだった。
あたたかい雰囲気が写真を見ているオレにまで伝わってくる。 他意のまったく含まれない笑顔たちは、こんな戦争の中でも、彼らがたしかに生きていた証拠でもある。



「‥オレはただ、自分のこと…知りたいだけなのに」



震える声を惜しげもなく外に開放すると、より一層 胸が苦しくなる。
――アレンが教団に来てから、よく実感するようになった感覚だった。 彼が言うには、これが『悲しい』という感情らしいけど、…オレの身体はやっぱりその感情を、せいいっぱい拒否している。
ぎゅうぅと握り締めていた写真立てを神田の長い指が取り上げて、オレの肩を彼の胸の中に引き寄せた。神田の体温は、他人のものとは思えないくらい、オレの身体に優しい。「大丈夫だ」と呟かれた声は、こちらもやっぱり 他人のものとは思えないくらい、オレの心を落ち着かせるのだった。


「俺は今のお前の方が、…良い」



神田がオレの頭を掻き撫ぜながら、気味悪げな視線を写真立てに送る。


暖かな雰囲気の写真は、オレがいる部分だけ――人為的に破り去られていた。