――トントントン、カンカンカン。
コムリンUの暴走によって教団にもたらされた被害は、思ったよりも酷いものではなかった。司令室から出て上機嫌に廊下を歩き、あちらこちらに置いてある角材を跨ぎながらオレの城―療養室へと足を向ける。 上機嫌なオレとは反対に、多分 今頃コムイのやつはコムリンのせいで行方不明になったり破損したりした資料の修復に(一人で)立会い半泣きになっているだろう。 最初は渋っていた彼だったが、『くんの考えたお仕置き』か『一人ぼっちの修繕作業』かを選ばせたら案外と素直に後者を受け入れた。
 先程まで嫌がらせのように修繕作業にあたるコムイを頬杖を付きながらにこやかに見守っていたのだが、それもなんだか時間を無駄にしている気分になったので処置済みの患者のカルテでもチェックしに戻ろうと思ったわけだ。
ちなみにオレがそんなことをしている間、条件を叩きつけると直ぐに司令室を(それはもうにこやかに)出て行ったくんはそれから姿を見ていないが、きっとどこかで皆に混ざって教団の修復に当たっているんだろう。オレよりよっぽど時間の使い方をわかってるなとしみじみに感じた。



――トントントン、トンテンカン、トントントントンカンカンカン、




明朗に響き渡った三三七拍子にオレは思わずずっこける。
(い、いるよねこういう奴ぜったい一人は…!)なんか変にリズム刻んだり拍子刻んだりとかさ! オレがずっこけたことからかリズムは単調に戻ったが、おいおい誰だそんなシャイな野郎はと思わず気になり上を向くと見覚えのある顔と目が合う。



「………」
「なんですかその変な顔」



まさかのくんだった。



「(どうしよう( よくわかんないけど泣きそう )きみこそなんですか今のアレ…三三七拍子?」
「 …室長、ちゃんと仕事してます?」
「( こいつ( 話題変えた!)まあ、あんな条件出せば暫くはな」



 咳払いをして誤魔化したくんに、きみ意外と可愛いところあるよねと 本人に言ったら目で殺されそうなことを考え、肩を竦める。 そうそう、コムイに出した『お仕置き』の内容は、こんなものだった。たった一言だったが、室長である彼からしたら相当に重い言葉だったらしい。
『そろそろ監査の方に、全てを申し上げましょうか?』
――ご丁寧に、噂の"監査の方≠ヨ瞬時に繋がるゴーレム、アンジェラを捕まえながら。くんはにこやかに言い放ったというわけだった。



「司令室行くのにオレはいらなかったでしょ」
「いえ、もし室長がノーと申される場合の保険として」
「保険?」
「あの"監査の方≠ヘ、班長の言うことにしか耳を傾けませんから」



 ふう、と遠くを見つめて溜息を吐いたくんに、オレもまた彼と同じような表情で陰気に呟く。


「…やめろよ」
「?」
「あの人はいつも、噂をすると来るんだ…。」



***




「リーバー班長この角材どこっすかー」
「それはンとこ持ってってくれ! …って…ん、あれ」
「え? あっ」
「「お、おはようございます!」」



 城内の修理に当たっていたリーバーとマービンが、明るい廊下の奥から科学班の研究室へ向かっている一人の権力者を前に、しゃきりと背筋を伸ばした。「…ああ、おはようございます。いつもご苦労さまですねぇ」緊張をあらわにする二人を見て、金髪の青年は温和な笑顔で軽く頭を下げた。



「すみません、騒がしくて…」
「どうか致しましたか? 皆さん本務を放ったらかしにして」
「イエッ大したことは無いんですけどね!本当に!」
「そうなんですか?」



ふむ、と顎に手を当て青年はきょとんと意外そうな表情を作った。「先ほど…」笑顔でゆっくりと天井を仰ぐとゆっくりと物事の順序をなぞるようにして彼は言葉を並べていく。「探索班の方々が、大きなスクラップを上へ送るのを拝見しました」ちらりと彼の疑うような視線がリーバーを静かに責める。「加えてこの城の破損具合に、資料の紛失状況…」青年の口角がだんだんと楽しそうに上がってきているのに比例し、リーバーの冷や汗はだらだらと増える一方だ。心なしか、彼の背筋が胃痛からかもしれないがじりじりと曲がってきている気さえもする。



「大したことが無いとは、良い度胸だ 班長殿?」
「………すみません…本当にもう…なんと申し上げたらいいのか…!」
「構いませんよ」
「すみませんすみませんすみませ… …え?」



この事件の主犯というわけでも無いのに本当に申し訳ないといった様子で頭を下げていたリーバーは、しばらくその青年の言葉の意味が理解できず頭を上げることができなかった。
 青年は、そろりと顔を上げたリーバーに先ほどとは一転、温和な笑顔を取り戻して語る。「本日は、そういった用件よりも優先させていただきたいことがあるのです。」ス、と唇の前に右手の人差し指を当てると、リーバーの背筋もまた一転、しゃきりと伸び――その様子を青年の桔梗色の瞳が満足げに見つめる。



「個人的に気になる事件がありご報告に…。我が姫を、お呼びいただけますか?」




 中央庁の制服をきっちり着込んだ青年――レオンは、しめやかな調子で用件を述べた。





***






「彼が新しく入団されたエクソシストですか?」


 ところ変わって研究室に新人エクソシストを発見したレオンは、そこでその彼を看るように頼まれていたリナリーから見て、向かいのソファで悠々とくつろいでいた。 いつもは監査に来るたび科学班を始めとする各班の事務を手伝っていた彼だったので、姫≠ニやらをリーバーが探し、呼びに行く間は教団内の修復を手伝おうかと持ちかけたが、今回ばかりはひどく丁重に断られた様子だ。



「そうです。 そろそろ目を覚ますころかしら…、あ。」
「…、うん…?」


 コムイ特製麻酔針の効果が切れ、ぱちりと目をさましたアレンはぼんやりとだが自分の上に掛けられた見覚えのある白衣と見覚えの無い来客の姿を交互に見、「おはようリナリー、えっと…?」リナリーに助け舟を求めるように視線を彼女に向けた後、やたらとこちらを観察してくる青年に戸惑いがちにぺこりと頭を下げた。



「は、…初めまして。 アレン・ウォーカーです」
「お会いできて光栄です。 黒の教団一般監査役のレオン・ビスクラレッドと申します」
「監査…」
「レオンさんは月に一度くらい、教団に異常や不正が無いか調べに来るの」
「………い、異常ってリナリー」



今のこの教団内の状況は明らかに異常なんじゃないか、と引きつった口元でアレンはリナリーを窺ったが、彼女はその彼の心配を否定するような笑顔をくすりと浮かべた。「大丈夫よ。たぶん…、ですよね?」首を傾げて、顔馴染みのリナリーにそう尋ねられたレオンは曖昧な笑顔を彼女に返すと、「さて、」「それは御令嬢のお言葉によります」と足を組み替えた。リナリーが「なら大丈夫よ、絶対にね」と微笑む傍ら、アレンは自分だけがどうにも取り残され気分で二人を交互に見遣ることしかできない。
 その様子を見たレオンが、微笑みに徹していた口をゆっくりと開く。



「ウォーカーくん。きみの姉弟子さまから、お噂はかねがね伺っておりました」
「え、から…ですか?」
?」
「えっ?あ、えっ?違いました…か?」
「…いえ、失礼。 フフ、」


 アレンの発言に何か癇に障ることがあったのかは知れないが、片眉をピクリと吊り上げたレオンの威圧感にアレンは確かに怯んでしまった。 焦ったように聞き返すと、彼も彼のほうで何やら自分の悪い癖が出たようだと米神に手を添え押し黙った後、その『噂』とやらを思い出したように笑い出す。


「まあ、15歳なのに借金まみれとか、空腹のあまり酒菓子を食べて大変な目に合ったとか、御師匠どのや姉弟子さまに拾われて暫くは一人では寝付けなかったとか、主にそういうことですが…」
「 ああ、そうなんですか」



彼が微笑んだまま述べたこと全てが現在進行形で忘れ去りたい記憶だったらしく、アレンは聞いた途端、顔に影を落として重い雰囲気を発した。が、それも束の間にアレンはフと思い出したようにいぶかしげな顔を見せた。彼の言っていることに何やら腑に落ちないところがあったらしく、顎に手を当てながらレオンの目を覗き込む。


「あれ? …でもは、僕のことを覚えていないみたいでしたけど…噂、?」
「…失礼。 すこし言葉が足りませんでした」


 レオンは肩を竦めると、困ったように眉を寄せてから胡散臭いほどの笑顔をアレンに向けた。「姉弟子さまから噂を聞いた、というのは、あなたが入ってきてからのことについてです。私の話した内容は、…実は先日伺った際、ちょうど室長殿がティムキャンピーとアンジェラの点検をされていましてね。 ちょうど私も立ち合わせていただきましたので、」そのときに。 レオンは笑顔なのに、どことなく常に高圧的な威圧感を自分に向けている気さえもする。どこか食えない笑顔と彼の言葉に、アレンは納得すると同時に思わず心の底で彼を警戒していた。




「ところでレオンさん、今回はどういった御用件なんですか?」
「はい…御令嬢の領地のことで、すこし調べていただきたいことが発生したのです」



 リナリーの問いかけに、レオンの桔梗色の瞳が落ち込んだように細められる。



「これから室長殿にもお話させていただく予定ですが、――まあ、エクソシストでしたらお教えしても問題は無いでしょう」
「あ、あの…話の腰を折るようで申し訳ないんですけど」
「はい、なんでしょうかウォーカーさま」
「御令嬢っていうのは、何…いえ、どちらの、」



 控えめに手を上げたアレンの質問に、レオンがああそういえばと言った様子で口元に笑みを浮かべた。「失礼。 すっかり内輪の話になっていましたね」リナリーの視線がスッと動いたレオンの手元を追っていく、彼の手は中央庁の制服の内ポケットから一枚の写真を取り出すと、レオンの目がそれを愛しげに眺めるのを僅かながら待った後にアレンへとそれを手渡した。


「我が一族は代々、彼女の血≠ノ仕えておりましてね」


レオンが説明を始めるころ、アレンは驚いたように固まったまま写真から目を逸らすことができなくなっているようだった。 ――何故なら写真の中で嫌々といった風な表情を見せているのは、(少しばかり着飾っているせいでわかりづらいのだが)たしかに見覚えのある、「家の方は由緒正しい血≠フ純潔を保つため」白い髪に赤い眼の、「我が一族から許婚者を選出致します」―――彼の姉弟子だったからだ。 遅い速度になったが、方程式の答えがアレンの頭の中でも算出された。 その答えを採点するかのように、レオンの口からは流れるように解答が述べられる。


「もう一度名乗らせていただきましょう。私はレオン・ビスクラレッド。ヴァチカンからの一般監査役、
 ――そして御令嬢さまの奴隷であり従者であり伯父に当たる、虚装の許婚者にございます。」






***





「お疲れ様。 つらいかもしれないけど、また今日から本務に就いて、頑張ってくれるね?」
「自分は、また…歩けるんですか…?」
「 まあ、試してみてよ。 走っても何しても、今までどおりのはず」
「…! あっ、…ありがとうございました!!」



 カルテをチェックしていると、今日は1週間ほど前療養に送られた男の、探索部隊への回帰日だったようだ。 彼の左足を封じるかのように巻かれた白い包帯をするすると解いていくと、見事な筋の通った肌が覗く。 まだ若い探索員の彼は、解かれきった包帯と自分のその足を見てから、信じられないといった風に恐る恐るとベッドから降り、地に足をつけた。数歩歩くと、感動したような、気味が悪いとでも言いそうな、そんな相反する感情が相俟った顔で地面を見つめる。
 ――言い忘れたが、彼の症状。 病気ではなく、怪我でもない。それなら何故療養に送られたのかというと、彼のその左足は、1週間ほど前、戦地にて戦いに巻き込まれ、…結果としては、左足がアクマの攻撃により、切断されたから(・・・・・・・)だった。
 青年は自分の快気に歓びが過ぎているのかはわからないが、少しばかり熱の入った眼でこちらを向く。 オレは苦笑交じりの顔で、そんな彼に声を掛けた。



「持って帰って来てくれれば、命さえあれば細切れになっても治してあげるけど」
「本当ですか!」
「でも所詮は、イノセンスの力」


 苦笑も失くし、右手に深く埋まった小さな王≠褪せた目で見るオレに対し、彼はその言葉に覚めた目で声を失くした。


「オレの力でも、きみの力でもない」


 ぎり、と右手を握り締めると、彼は何を返したら良いのかわからないような表情で、「班長?、」と小さく呟いたあと、戸惑いがちにだが「…そうですね。」と目を細めた。「…オレが班長になった時から、患者全員に言っていることだけど」慰めるつもりだったのだろうか、オレの肩に置こうとしていたらしい青年の両手を掴んで、ぎゅうと握り締めた。 まっすぐに、まだ若い彼の瞳を覗くとはっきりと語りかける。



「痛みに慣れないで」
「…はい」
「慣れることは、一番怖いんだ」



 ――例えばそれを失ったとき、立ち直れなくなるほどに。





*





「さっきのはきみの経験論?」




 黒髪の、男性としては小柄な探索員が、唐突にオレに問いかけてくる。あんまりにもその言葉が軽い音に乗って耳に入ってきたものだから、その問いかけがオレに向けられているということに少しの間気が付けなかった。


「…ダグ!」


彼に面と向かって話をするのは、数年ぶりのことだった。 一瞬ぽかんと彼の姿を驚きのあまり見つめてしまったが、すぐさま平静を取り戻し自然と浮かんできた口元の笑みを惜しげもなく晒す。「久しぶり、元気そうだな!」 ダグはオレの目と笑顔を見て、すっと戸惑いがちに視線を逸らしてから「おかげさまでね」と、ひかえめな笑顔でオレの方へまた視線をもどした。
どうやら彼は先ほど回帰した青年の様子を伺いにきたようだった。 自室か、はたまた所属する隊の隊長のところへ報告に行ったのかは知れないが、とにかくここには居ないという旨を伝えるとダグは、自分がこちらまで見舞いに来たのに居ない、という脱力や徒労を微塵も感じていないとでも言うように「良かった、治ったんだ。本当に良かった…」とほっとした情けない顔を見せていた。 その表情に思わず暖かい感情がこみあげてきて、オレはまた笑顔になる。
 ――ダグは、
くんとは非常によく話をするが、オレにはあの事件(・・・・)があって以来、近寄ってすらこなくなった。 オレが就いたある任務について、探索部隊のみならず教団全体でぽつぽつと噂されているある話にそれは関係していた。その内容の中心人物たちは、どんなに尾ひれがついても変わることはない。
――とある探索班の隊長と、当時はただのエクソシストだった少女――。



「やっぱり、…まだ怒ってるのか?あのこと(・・・・)…」



話題を探そうとしたのに、そんなことしか考えられなかったせいで選択肢の中でもミスルートな話題を口に出してしまったようだ。 あのこと(・・・・)なんて、何を指しているのかさえ不明瞭なのに、その代名詞自体がオレたちの中では暗黙の話題として恒常しているのか、一瞬にして気まずくなる雰囲気。ダグの団服の襟の部分を、ごまかすように見つめていると、彼はどうしたらいいのか迷っているような顔で、口をかすかに開けては閉め、を繰りかえす。「…違うよ。」暫時の沈黙がつづいたあと、オレに届けられたのはたしかな否定の声だった。



「最初から、怒ってなんかないよ、そんなこと(・・・・・)
「…本当に?」
「隊長…先輩が、きみを護って死んだなら、探索部隊として誇ってもいいことだし」
「… 護って死んだ≠じゃ無かったら?」




目を細めて、自分の感情を押し込めながら語るダグに、痛みとも怒りともつかぬ感情が溢れて胸が痛くなる。 何故だか熱くなった目頭を叱り付けてダグに問うと、彼は細めていた目をピクリと見開いた後、怨むような、訝しむような目でオレを見た。


「それはただの噂だって、俺は信じてる」
「噂じゃないかもしれないよ。 噂は真実で、オレが殺したのかもしれない」
「きみの目は、…人を殺した人間の、目つきじゃない」



――とある探索部隊の隊長は、
      まだ若いが統率力もあり、温厚で敬虔なその性格は、人々の心を掴んだ。
――とある新人エクソシストに、という少女がいた。
     彼女は何も力を持たず、逆境に立たされていたが、よく笑い明るく、悲しむような素振りは、一度も見せたことがなかった。

 あるとき、二人は知り合い、やがて共通の任務に派遣された。 三年前のことだ、まだアクマにも発見されていない、比較的安全なはずの任地で、――彼を除いた3人余りの探索員が、外傷の無い不可思議な死因で、殉職した。 そして、隊長は…、現場に居合わせた第三者の話からすると、彼が発見した時には既に死体だった男の身体は、アクマの血の弾丸を食らったときと類似した形で灰になっていたという。 …そして灰の中には、気を失ったが居た、と。

 ダグの言葉にすっかり声の出なくなったに、彼が静かに問いかける。「きみは…さっき、俺がまだ怒っているのか、と聞いたよね」視線を空にさ迷わせながら、どこかもどかしげな彼女の目は、いつもと変わらず透き通っていた。嘘も悲しみも映さない、底抜けに透き通った紅い目は、――どこか不気味なものさえ感じさせる。 ダグは不満げに顔を歪めると、の顔をまっすぐと見た。



「俺は、先輩が死んだことで怒ってたんじゃない」
「じゃあ、なんでオレをあからさまに避けた?」
「 …きみが、理解できなかったからだ!」



 珍しく声を荒げて言うダグに、はびくりと怯んだ。 ダグは大きな目に戸惑いと熱を乗せて、向かうようにに語る。



「俺は辛かったよ。 …先輩が居ることに、慣れていたから」
「…ダグ、」
「なのにきみは…涙ひとつ流さず、教団に戻ってきたら無邪気に笑い、何事もなかったかのように振る舞ったよね」



ぎゅううと白い団服を握り締めて、ダグが呟く。

「きみは…、あなたたちは、惹かれあっていたんじゃなかったの?」



 ダグが混乱したようにを見る。
――三年前、いや、それよりももう少し前。 教団に入ったばかりのには、普通の団員ならば経験せずとも良いであろうハンディキャップがあった。即戦力を求めていた黒の教団だ。臨界者の死と引き換えに送り出された、脆弱なエクソシスト≠ヘ 当然ながらに教団に馴染めず静かな迫害を受けていた。 …そんな中にも光はあるもので、探索班のその隊長は(当初はただの同情だったのだろう)、いてもたってもいられなくなり彼女に手を差し伸べた。 彼女も彼女で、ひどく優しさと人の体温に飢えていた。 ――二人は、偶然的にせよ、短い間だったが惹かれあっていたというわけで。
 ダグが納得いかないのは、ただの部下である自分よりもずっと悲しみが深いであろう、その彼女がなんの動揺もせずに居られることに当初は疑問を覚えた。 ただ、無理をしているだけなのだろうとそう考えていた。
(だけど、違った。)
彼女は無理をしていなかった。悲しいなんて、心が痛いだなんて、微塵にも感じていなかったからだ。
 は沈黙の後、ゆっくりと口を開く。 顔に映っている感情は、おかしなことに“疑問”。



「今になって、あの時の自分は今よりずっとおかしかったんじゃないかと思うよ」
「…?」
「オレは馬鹿だから……でもさ、概念は頑張って覚えたんだよ? 悲しいって、どういうことなのか。」
「…?」
「裏切られたら悲しい、好きな人が居なくなると悲しい、大切な人が死ぬと哀しい。
 怒りによる事実の拒否が脳で起きてから、事実を受け止めたときに胸が締め付けられて、涙も出るって。…な? 間違ってないだろ?」


あっけにとられながらダグはの話を聞いていた。 いくら普段冗談の多い彼女だからといって、こんな場面でそれを発揮するほど残酷な性格はしていないはずだ。 うつむきがちな上目遣いは、返答も反応も無いダグに 不安そうながらもいたって真面目な一心を注いでいた。 ダグはきっと先程の発言を肯定してくれるだろうと、そんなことを考えていたは繕うようにもう一言を音に乗せる。


「でも、どうしても、その……心が…付いてこなくて…、」


―――このとき、ダグはようやっと理解する。
( 違った。哀しまないなんて、泣かないなんて、 )



 この人、本当に知らないだけだ。


――明るく無邪気な彼女からは、悲しむための感情が、すっぽりと抜け落ちているんだ。