「死ぬかよ…」 耳元で風が靡く。 びゅうびゅうというそれが切れる音に紛れて、微かに聞こえた神田の声は虫の息のようで、静かに小さく、そしてただただ 独り言のようにも聞こえた。「俺は…」 神田ほどではないにしろ、無理にイノセンスを発動したオレの身体にも 違う意味でのガタが来ているようだった。(…しっかりしろ)今にも気を失いそうな意識にそう言い聞かせ、瓦礫に突っかかりながらもぐらぐらと頼りなく走る。(神田が危ないんだ…!) 倒れるな。 「あの人を見つけるまで 死ぬわけにはいかねえんだよ…」 「…っ!?」 普段のオレならきっと、聞き取れてはいなかったであろう、吐息のような呟き。 戦場のスリル、緊張感、己の力を吐き出す、この限りなく放恣な時の感覚。(…びりびりする)琴線のように張られ、研ぎ澄まされた感覚はきっと、ちょっと、そう、ほんの少しだけ余計な音を オレの耳に届けてしまったのであろう。 『俺はあの人を見つけるまで…』、 (…だれ、だ?)。 その疑問が頭の中で渦巻き、消えて、無くなってゆく。(…くそ) 正直興醒めだ。 血だらけの神田がアクマ越しギリギリに見える。 睨むように目を細め、凝視していると、神田の眼から生気が消えていってしまった。 「ギャヒャヒャヒャヒャ! すげーー 立ちながら死んだぞ!」 「…ふ、ざけんなっ!」 頭に血が上るのがわかる。 銀色に光る六幻を両手で握り、右足で踏み込み刀身をアクマのボディにスライドさせる。「…っ、は、ァ…!」手首がじんじんと痛む。イノセンスといえども、日本刀を握るのは初めてなのだ。所詮 見様見真似の一撃は、アクマのボディを断ち切り、地下通路を仕切っている壁の4,5枚を突き抜けていく程度で終わった。 一息つく暇も無く 飛ばしたアクマを追いかけるように走っていく。「レグルス!!」半ばやけくそ気味に叫び、瓦礫の上に崩れたアクマに向かって右手を伸ばす。 「…っは‥、 付き纏え 衰弱の呪詛 …トリンカー!」 「ぐぇえっ!」 息を切らせながら詠唱をすると、アクマの下の瓦礫から、この薄暗い場所によく生える、不気味なもやもやとした紫色の光りが這い出る。 アクマの身体に纏わり付くと、そのボディは1ミリも動かなくなった。 “トリンカー”…、失敗が多いのが玉に傷 だが、効いてさえしまえばしばらくの間 対象物を麻痺にも近い状態で気絶させることができる。 「おやす、み……――っ?」 レベル2の頭へと六幻を垂直に振り下ろす。 銀色の刀であったのなら、このアクマを破壊できていたのだろうか。 「…チ」 どこまでもついていない。 今のオレの力では、他者のイノセンスを解放できる時間は一分にも満たないようだ。 鈍い漆黒色に戻った神田のイノセンス、六幻は、アクマの硬質なボディに弾かれて終わった。 「(…刃こぼれしてたらどうしよう)」 ふぅ。 息を吐き前髪を掻きあげる。 すっかり熱くなった身体を冷ますように、団服の襟をぱたぱたと煽ぐ。 瓦礫をがしゃがしゃと踏み鳴らし アレン達が居るであろう方向へと急ぐと、目的の新米エクソシストの声が聞こえた。「神田!!」 どくんと心臓が跳ねる。…大丈夫、ここで死ぬほどあいつは弱くない。 「アレ…ッんがぅ!!」 「うわっ!?」 あと少し、というところで盛大に躓いてしまった。 瓦礫に思い切り顔を打ち付けたが、それどころじゃないと彼の方を見上げると呆れたような顔でこちらを見ていた。「生きてる…だ、ろ?」 恐る恐る尋ねると、白髪の彼は渋い顔で言う。 「虫の息みたいですけど、呼吸してますよ」 「…そ、っそれはつまり」 「生きてます、大丈夫。」 その言葉を聞き、アレンの微笑む顔を見て、オレがどの位、どれほど ほっとしたのかを知ってる奴なんて きっと、オレ本人しかいないんだろうなあと しみじみと実感してしまった。 「…とりあえず。 今は一旦引こう」 「はい! ‥ところであのアクマはどうしたんですか」 「こいつが元に戻って止めは刺せなかった。 でも、暫くは動けないようにしてきたよ」 こいつ、と示した漆黒の六幻を、同じ色をした鞘の中へ収めた。 「あーっ…しんど‥」頼りない持久力が先ほどから悲鳴をあげている。 ひとつ大きく息を吐き出し、よし、と呟いて神田を担ぎ上げた。 まだ頑張れる、大丈夫。 弱音なんかは吐いていられないんだ。 気を抜くな。玉響(たまゆら)の油断にここからの未来、自分の笑顔を作り上げるか、はたまた最悪の結末、死屍を築き上げるかがかかっている。 弱音を吐く暇があったら、その分の労力を極限まで張り詰める精神に回せ、というものだ。 (でも)(多少の弱音は、許してよね) オレはまだ、そこまでできた仕事人じゃあ、無いから。 「痛っ」 「…ウォーカー殿、私は置いていってください。あなたもケガを負っているのでしょう…」 「なんてこと、ないですよ!」 右隣で、トマとアレンの会話が聞こえる。 ぼんやりとした頭に、ひんやりとした地下通路は気遣うように優しかった。 「は‥、どこか休める場所、探さなきゃ…な」 「…。 、神田引き受けますよ」 「 ‥ありがと、でも大丈夫」 「そう言う割にはすごいフラフラしてるじゃないですか」 「でも怪我は無いから… いざとなったらお前ら2人も担いでやるって!なっ!」 言葉とは裏腹に、おもったよりも疲労が迫ってきている。 引き攣る頬を無理やり引き上げ、できるだけいつもどおりに近い笑顔でそう言うと、アレンも渋々といった感じで苦笑いをこちらに向けた。 *** 「‥泣いているのか…?」 「歌が聞こえる」、と呟き、その歌声とやらに 導かれるようにして進んでいった彼の後に続き 辿りついた場所は、争いなんか忘れてしまいそうなほどに清閑なところだった。 先ほどまで流れていた(らしい)歌はしんと静まり、微かな風の流れる音だけの残る空間に響いたのは、ひどくしゃがれた老人のような声。「――ララ。」 アレンが立ち止まったところまでどうにか辿りつくと、ブレる視界にふたつの人間のような形をした 何かが映る。 「グゾル…、どうして自分が人形だなんてウソ、ついたの?」 「私はとても…醜い人間だよ」 ふたつの影は、老人と、少女。 「ララを他人に壊されたくなかった」 そう言う老人の声には、少し、執着のようなものを感じた。 この二人の会話の筋からして マテールの人形、というのはあの少女のことなのだろう。 今しがた任務として来たばかりのオレには、あの二人がいつどうやって知り合ったとか、そんな事はまったくもってわからない。 それでも、遠目に見ているオレでさえも、あの二人はお互いがお互いを必要としあっているのだろうな、と直感してしまう。 「ララ…ずっと側にいてくれ」 緊張感を保つ耳が 老人の息遣いや声質を 確実に捕らえていく。 その度に医者のカンが告げるのだ。 ――恐らくあの老人はもう、長くない、と。 「そして私が死ぬとき 私の手で、‥お前を壊させてくれ…」 『ねえ 。 俺が死んじゃったら、きみは…を…して…れる?』 「痛っ…」 「 !?」 届いた声に、突然右脳が痛み出す。 あの二人に、今、何か違うものを見た気がする。 頭を抑えふらりと傾いたオレをアレンが片手で支え、安定させる。 「…ごめん」「いえ」謝ると、彼は宥めるようにオレの左手を握った。(……熱い)そう思うオレとは逆に、彼はこの冷たすぎる体温に対し、一瞬だけ驚いたように目を見開いた。 「はい グゾル ララはグゾルのお人形だもの …次は何の、歌がいい?」 「私は醜い・・・ 醜い・・・人間…だ 」 老人が懺悔をするように、繰り返し言葉を紡いだ。――自戒のつもりなのだろうか。 どくどく、ずきん、どくどく、ずきん、どくどく、ずきん、どくどく、ずきん、… 心拍数の2回の間に挟まれるようにして、右脳の痛みがひょっこりと顔を現す。 耐えるように目を瞑る。眉をしかめる。それでも一向に去るということを知らないのか、右脳の痛みは未だ残る。 握られた左手をぎゅう、と握り返すと、アレンの熱いくらいの体温がより一層伝わってきた。 「!」「…悪い…」「い、いえ、全然」 「!!」 そう言葉を交わし終えたのとほぼ同時に、“ララ”と呼ばれた少女が驚いたようにこちらを振り返る。「あっ…、」思わず声が裏返ってしまった。 「え、えっと、ご、ごめんな!」 「…君が」 「立ち聞きするつもりは、全然、無かった、ん、だ、け、ど…」 「 君が人形だったんですね…」 オレのいたいけな弁解はオール無視!知ったもんかという風にアレンは真実を紡ぐ。 いや、違うな、と思う。今の彼は思ったことを率直に口から出してしまった、という方が正しい。ぽろっ、と、意外なのであろう事実がひとりでに零れていった感じだ。 「 げ。」 そして今まさに、オレが口から零したのも率直な感想。 か細い腕に小さな体躯の少女(人形という意で、あれ、と呼称するには、彼女はあまりに美しすぎた)は、なんの間違いも無く、自分の何倍もの体積と高さを誇るであろう石柱を持ち上げたのだ。目には殺気。主と自分を守るのだ、という確固たる意志が伺って見える。 (あ、アレンのバカヤロ…!) お、おまえいつものデリカシーはどこに置いてきましたか! 「! う、うわっ、わっ、わあ…!」 「どわたっ!!? ままま待って…落ち着いて話しま、…わっ!!」 石柱が次へ次へと投げられてくる。あんな か細い腕に、なんつうパワー秘めてんだ!引き攣った口元でよろけながらも小走りで逃げる。石柱の欠片が頭に飛んできた。「いてぇ!」 「…。 聞いてくれそうにないな」 「お、お前がデリカシー無いこと言うからぁ…! 責任取れ畜生ォ!」 軽いヒステリーでアレンに糾弾すると、彼は苦笑をこちらに向けた後、「トマと…神田を、お願いします」と呟き、担いでいたトマを地面にゆっくりと寝かせると こちらへと飛んできている、ボロボロの石柱に向かっていった。 手袋を噛んで、左手から外すとアレンのイノセンスが発動する。 大きな白い、手、というよりもあれは武器と言った方が正しいのだろうか。 石柱に食い込ませるように引っ掛けると「それっ」という軽い掛け声と共に大きな石柱を投げ返した。(おっオレあんな軽い掛け声で石柱投げ飛ばす英国紳士)(見たこと無い…!)観点のずれたツッコミを心中で零すと、石柱は少女に当たらず、白い砂地から生えている残り何本かの柱を薙ぎ倒す形で、ブーメランのようにアレンの手元へと戻ってきた。 「もう投げるものは無いですよ」 アレンがララへと近付く。 「お願いです、何か事情があるなら教えてください」 あちらはあちらでもう大丈夫なようだ。あちらは、あちら。…そうだ、こちらも『お願いします』と頼まれた以上、最善の手を尽くさなければいけない。 目の前の怪我人二人を見据える。一人は大量出血、一人は意識混濁。 「…トマ」「はい」「大丈夫か」「はい…申し訳ございません」「何が?」 「神田」「…」「ユウくーん?」「……」「六幻バカ」「………」「…あらま。」 一人は意識があるが、一人は無い。(判別法おかしいとか言っちゃ駄目!) 呼吸音、あり。 「発動、小さな王。聖者に賦活の恩恵を。 …ハイレン」 「殿、私より先にどうか神田殿を…」 「いーのいーの。 あのバカは殺したって死にやしないさ」 トマの前に右手をかざし、そんな軽口を叩いてみせる。…今こんなことがいえるのは、やはり、彼が生きているとわかったからなのだろう。先程はいささか取り乱してしまった。 10秒ほどが経って、掌から毀れていた水色の光が静かに収まって行く。トマの傷が粗方は癒えたらしい。「…どう?」「…はい、もうすっかり。ありがとうございます、申し訳ございません…」「いえいえ。イシャですから」当たり前ですとも。 「」 「お、片付いたか」 「はい、そっちは…」 「これから神田治して、終わり」 「? 治、す?」 「…まあここまで傷大きいと、…完治は無理、だけ、ど…、っい、」 「!だ、大丈夫ですか?」 少しだけ治まっていた右脳の痛みが、イノセンスを発動させた負荷なのかまたしても顔を出す。(…鬱陶しい…) 「平気 平気。 ララたちの方見てて」「…はい」無理に作った笑顔で、何か言いたそうなアレンを宥める。後ろの彼に左手をひらひらと振ると、神田の団服のボタンをゆっくりと、それでも手慣れたように素早く外した。 「…グロっ」 左肩から走る傷口に、思ったことを率直に出してみる。深く刻まれた傷跡からは、今だ血が流れている。肌の色がいつもと違う、のは、乾いた血が、その肌表面の殆どにこびりついているからだった。(美味しそうな血)(…じゃ、無く、て!)右脳の痛みにどさくさに紛れて、本能の声が心の中に響いた。美味しそうで、綺麗な血。でもこれがいっぱい出たら、神田はもちろん、普通の人間と一緒で、死んじゃうんだよね。 そして、神田が死んだら、オレに血を与えてくれる“契約主”もいなくなってしまう。 オレは…、吸血鬼、だ。神田が居なくなった後のオレの顛末も、きっと哀れなものだろう。 (傷口を塞がなきゃ) 腹の底に気を溜めるように、深呼吸を一回。瞼を伏せる。開く。 神田の胸元に、指先だけ、触れた。 「――采配(。横たわりしこの者に、これより我が御魂を与える。 闇よりもなお暗く 夜よりもなお深き 死の深淵にて彷徨える白き手 この者の身体より 手を離せ 手を放せ 手を離せ 血に塗れしたゆたう体躯 挫けぬ宿志 暖かな腕( 闇の淵より、」 歌うようにゆっくりゆっくり、決してつっかえたりしないように詠唱を紡ぐ。 右手から溢れる光が大きく大きく、神田の身体を包んでいく。右脳の痛みが半端なく増えていっているのが手に取るようにわかった。 シンクロ率の低いイノセンスも、短時間のうちの発動回数の多さにそろそろ限界を迎えているようだ。 (あと少し、今だけ、持って) こんなところで彼を死なせるわけには、いかないから。 「 ――…闇の淵より、我が御魂が、救う、掬う、巣食う。 聖者に 賦活の 恩恵 を 。 …ハイレン!」 ぶるぶると震える右手を安定させるよう、手首をきゅっと掴む。 詠唱が終えると、神田の身体を包んでいた水色の眩い光が、不規則にうねり、流れ、空間に散って消える。 すべての光が散ると、神田の身体にあった傷はほとんどが塞がっていた。 傷があった場所を、辿るようになぞる。 触った感覚からすると、中までは恐らく、治っていない。激しく動いたらきっとまた、この線はゆっくりと開いて、鮮やかな赤を垂れ流すのだろう。ところによっては暗赤色かもしれない。 「…うっ…」 そんなことを揺らいだ頭で考えていると、神田が微かに呻き声を零す。良かった。起きて。神田。 「…痛、っ」 「殿!」 「……あは…まいったなぁ……うん。」 安心したら気が抜けたらしい。神田の胸に蹲るように倒れこんでしまうと、頬に湿った感覚を覚える。血が付いたのかな? …そんなの、どうでもいいくらいに 眠い。 蹲った背中に誰かの手が回る。それとほぼ同時に、身体を預けていた胸が起き上がった。 上から声が降ってくる。オレはそれに顔を上げる。淡い光の黒曜石が、在った。 「…阿呆女…。」 「……ん…」 聴覚が弱まる。神田の声が小さく耳に届くと、それきり周りの雑音が聞こえなくなった。 イノセンスを使いすぎると、寄生元のこの身体に不具合が生じるらしい。今回は‥耳だ。 「…おはよ」 「(…無理を…)」 そう神田の唇が動いたが、“無理を”させた相手が自分だということに気が付いたのか、それ以上には口を噤んだ。 たまにはありがとう、とか、言ってくれればいいのに。けちだねえ、おまえさんは。 「(……。)」 「ん…」 神田の瞳が細められると、大きな掌がオレの目元に被さった。視界が一気に暗くなる。 久しぶりにイノセンスを使った。久しぶりの任務だった。 久しぶりの戦場で、オレは昔よりも役立たずで、アレンにもトマにも、…神田にも、迷惑をかけてしまったな、と思う。 彼らが居なかったら今ごろのオレはどうなっていた? 死なない身体だ。死にはしないも、きっと生きたスクラップ状態になっていただろうな。はは。シャレになんねー。 (…悔しい) オレが居なかったらもっとスムーズに任務は終了していたのだろうか。 コムイは何故オレまで同行させたのだろう。意図がつかめない。 (…もっと、) 強く、在らなければ、と思った。きっと、今のオレは、アレンよりも、新人として入ってきた彼よりも弱く、脆い。 強くなりたいの? 確かに貴女は、昔よりもずっと弱くなってしまったものね 突然、耳の奥へと声が響く。「?」聴覚が回復したのかと、瞼を開こうと試みる。が、それは無理だった。自分はもうすでに、眠った後の暗闇の世界に迷い込んでいたらしい。 昔、か。 昔っていつのことを指すんだろう。その昔というのは、オレの記憶の範囲内なのだろうか。 そのままじゃいつか、喰べられてしまうわよ 空耳では、ないらしい。 どこか聞き覚えのある、良く通るソプラノだった。 ソプラノはどんどん遠くなっていく。深い闇の中で、白い長い髪を揺らす、少女の後姿が見えた。 貴女の右手の獅子は、とてもつよいから *** ――トサッ 「…ん」 顔に降り注いだ砂粒に、微かに身じろぎ目を開ける。――疲れた。 視界の隅にあったイノセンスを見て、ああ、これは。とはっとする。あの二人、グゾルさんとララの、約束を、守らせてあげなければ。 左手をイノセンスに伸ばす。が、その腕は途中でぱたりと砂の上に堕ちていった。 (…動かない) あと少し、なのに。 「!」 不甲斐なさに歯をぎり、とひとつ鳴らした所で、白くて細い指先がイノセンスを掴み取る。 驚きに目を上げると、そこには興味深げにイノセンスを観察するが居た。 ―― 後から考えると、それはではなかったようにも、思える。 彼女は鮮やかなスカイブルーの瞳を瞬かせて、イノセンスについた紅い血液をコートの袖口で きゅっと拭った後、僕に差し出す。 「はい。」 「……ですか?」 「男の子でしょ? 言ったことは最後まで、きちんとやりなさい。」 咎めるような口調で、しかしにこりと微笑みながら彼女はそう言う。 左手に力を篭めた。しかし差し出されたイノセンスに手が届くことは叶わない。 「…もう。」 しょうがないなあ。 が眉を下げた。僕の左手をゆっくりと、教団に来たあの時と同じように、壊れ物を扱うように取る。「ハイレン」小さく彼女の唇が揺れる。僕の身体を、小さな水色の光が包んだかと思うと、暖かな温度が体内に流れ込んできた。 「ほら、あとちょっとじゃないの。 頑張りなさい、アレン」 すっかり動くようになった僕の左手に、がイノセンスを押し付ける。 「ありがとうございます、…」 それを受け取ると、は はにかむように小さく笑う。 すると、スカイブルーの瞳が遮られるように、彼女の瞼が下がっていった。「、おっと」ふらりと身体が傾く。小さく軽い体躯を受け止めると、具合でも悪くなったのかと心配して、彼女の顔を覗き込んだ。 は小さく寝息を立てていた。口角は上に向かっており、笑っているようにも見える。 ほっとして、息を吐くと 彼女の身体を床に寝かせた。昔から変わらない身長には思わず笑みを禁じえない。 「……」 囁くように、寝言を零した。口許には笑み。 きっと楽しい夢なのだろう。 クロス師匠に拾われ、すぐに僕が彼のパトロンの「マザー」の元に1年ほど預けられてから帰ってくると、彼女はもうすでに彼のところに居た。 綺麗な人だなあ。それが、一番目の感想だったことは記憶している。 マナを亡くし、もう殆ど生きる気力を無くしていた僕に対して本当の姉のように励まして、接してくれた。 でもその反面は、いつも悲しそうに、なにかに怯えるように身を縮こまらせている女の子。 教団に来た時、は僕のことを覚えていないといった。まさか、と考えたのだが、どうやらそれは嘘ではないらしい。まさか、どうして。そして、まあ、いっか。それが僕の思いだ。だっては今も、そして、きっと明日も、こうして笑っているだろうから。 (あの頃は、こんなに幸せそうな顔、しなかったな) 幼心に、彼女をこういう風に笑わせることが、僕の夢だった。 …なんて言ったら、今のはなんと言うだろうか。 「 ありがとう。 、」 あと、ちょっと。僕は、頑張ります。 目の色の変化については追々。 08.07.31 一部修正 |