『助けて』
『助けて』
『助けて…くれ、』


「…ん」

 ザリッ。砂粒を潰すような足音と、耳元のじくじくと膿むような痛みに神経が刺激され、まどろみながらも瞼を開ける。 薄い白色の フィルターがかかったような、暗い夜の中の視界に移された最初の物体は、夜空の手前にある、愛しき人の横顔だ。(………また夢か?)(でも今度は良い夢だ、なあ‥)ぼけっと目を開いている。そんなオレを抱えて、彼は荒地を走っているようだった。揺れるたびに触れる、コート越しの、オレにとってはあつい体温が久しぶりだ。(…。寝たふりしてよう)

「起きたなら寝るんじゃねえ、阿呆女!」
「うわっ! …な、なんだよ夢の中くらいオレにも自由をッ…!!」
「…寝惚けてんじゃ、ねえよ」
「いたっ! あ、あ、すいませんごめんなさい起きます起きてます大丈夫ですからァァ!

 神田の腕に頭を寄せて目を瞑ると、まずデコピン一発、オレの悲鳴の後に頬に強烈な痛みが走った。彼は器用にもオレを片手で抱え、他方の手でこの頬を引っ張っているのだ。

「あああああ!起きた!ノープロブレム! …許してくださあい!!」
「人前でいちゃつくのやめてくれませんか」
「…っ、おま、どうやったらこの攻防戦がいちゃついているように見えるんだ…!」
「あ、おはようございます、

神田の黒髪と夜空の間に、ちらちらと覗く白髪がこちらに向かって呆れたような視線を送っているのに気がついた。「…ん、おはよ」 引っ張られていた頬が開放されると、ひりひりと痛むその場所を手で覆う。アレンの顔を見て少し苦笑いがちに返事を返し、オレを抱えたまま 特に問題なさそうに、荒地の砂利を踏みしめ颯爽と走っている神田を見遣る。

「降ろして大丈夫だよ、目ェ覚めたから。…重いだろうし」

 空の宵闇色を吸収して、黒曜石のように光る彼の目が、一度だけオレの目を見る。

「……テメェは自分の心配してろ」



***



「マテールの亡霊が、ただの人形だなんて…」
「イノセンスを使って造られたのなら ありえない話じゃない」

 会話が途切れかけたころ、アレンがポツリと呟いた。 神田の答えに軽く頷きつつも、抱かれたままの身体に少々恥ずかしさを覚える。(いつも 甘えてばっかだ)ため息をひとつ、小さく零し、自分の左耳を抑えた。ひとつだけ空けたピアスの固い感触を指先に覚え、それを撫でる。「(…耳が熱い)」

、どうしたんですか?」
「…ん?」
「顔色悪いですけど…」
「ああ、いつもなんだ。気にしないで」
「?」

 誤魔化すように、アレンの顔を見て繕うように笑む。 オレの耳は、少々変わっている。 普通の人間の耳に届くものが、相手の声、或いは、万物の立てる音だとすると、オレの両耳は『喋らないもの』の声までもが聞こえる。別に昔から聞こえていたとか、生まれつきのものとかそういうのでは無くて、14歳の時 父親に吸血鬼にされてから動物とか植物とか、そういうものの声が突然耳に飛びこんできたのだった。(アクマの声が聞こえるのは、とても便利だ)その代わり、彼らの声が、助けてくれという悲鳴が、耳に残って酷く痛む。

「ちっ トマの無線が通じなかったんで急いでみたが…」

ボロボロに崩れ、乾いた崖から見下ろした街は 当の昔に寂びれ、その当時のままの趣をそこに残しているようにも見えた。

「殺られたな」 
「…、一人、生きてる」
、アクマの数は」
「6…いや、ボール型5体に……レベル2が1体、かな?」
「 チ、おい、お前…、始まる前に言っとく」

 神田の遠慮無い物言いに、アレンの眉間が微かに顰められたことに気が付く。 そんな彼の様子に気付いたのか、神田は舌打ちを一つ落とし、口を開いた。

「お前が敵に殺されそうになっても、任務遂行の邪魔だと判断したら オレはお前のことは 見殺しにするぜ! …戦争に犠牲は当然だからな。変な仲間意識 持つなよ」
「…嫌な言い方」

 きっとこの二人は価値観が正反対なのだと改めて考える。 協力すれば楽なのにと一つ溜息を吐き、自分の髪をくしゃりと撫で付ける。「…っ!」その瞬間、大きな音を立て、枯れた建造物とアクマ2匹が視界に入る。 両の耳と右手が、心臓が疼く。 早くあの声を絶やせ、壊せと訴えられている。 アクマの声は三種類だ。 その中の1つは今にも消えそうな掠れた声を発している。(あそこにレベル2がいるな)

「あそこだ。 口、閉じてろ」
「了解」

ダンッ、と思い切り地を蹴るような音が神田の足元から聞こえると、次の瞬間には身体を襲う浮遊感。 自分の髪が風に舞う。前髪からサイドの髪までを右手で覆うと、崖と同じく、乾燥で老朽化した建造物が着地点に覗く。 暗闇に目を凝らすように眉間に皺を寄せると、微かに白い、人ではない何かが、下の空間にいることに気が付いた。(…あそこか) 認識すると、更に耳の奥が痛む。


「イ イノゼンズはお前らアクマになんか渡ざないっ…」


レベル1の放った弾丸が、結界装置の張られた帳へ向かっていく。 が、さすが科学班の粋を集めた作品だ。 薄いフィルターがかかっているようで、はっきりとこそ見えないが、中には人間の老人と子供がいるように見えた。 二人とも無傷だ。(あれが亡霊か?) みし り、と、骨が、意図的に加えられる圧力によって軋む音が耳に届いた。「ヒマ潰しにお前の頭で遊んでやる」なんともいえない、愉快そうに喋るこの声は、恐らくあそこにいるアクマのものだろうか。 「ギャアアッ!」 ぐちっ、と、寒気の走るような、血を交えた 肉と頭蓋骨の潰れていく音がする。

「アレン まだ行くな… おい!」

建物からアクマの居る場所へとアレンは飛び移り、呼びかけても無駄だ、とでも言うように煙の中に飛び込んでいった。横で神田の舌打ちが聞こえる。

「あーあーあー・・・ 優しいのはいいけど、ちょっと展開が早すぎるぞー」

 ザリ、と音を立てて神田の腕から地面に着地し、夜の空間に慣れた眼で、煙の中を凝らすように見る。 微かだがアレンのイノセンスと、それを抱えているアクマが見えた。


「居た」


そう思った瞬間、煙の中から黒いコートに包まれたアレンが建物の外壁に向かって、吹き飛ばされる。またしても ドン、という鈍い音が辺りに響き、建物の崩れる音までもが鼓膜に沈み込む。

「…あの馬鹿」

 横に居る神田が呟くと、崩れた外壁から怒りを露にしたアレンが現れた。



***



「…で、とりあえずあのレベル2はアレンに任せるとして…」

 成り行き上そうなってしまったものは仕方が無い。じゃり、と乾燥した砂粒を踏みしめ立ち上がると、不満そうにこちらを見る神田の目を見る。「イノセンス、任せてもいい?」「…お前は?」「あっち」 そう言い指差した方向を、神田の目が辿る。 夜空をうろうろと徘徊する、数体のアクマだ。「レベル1を、片しとく」

「無茶すんなよ」
「…ん? え、ちょ、なんか今日キミ優しくない? 熱とかあるんじゃ」
「茶化すな阿呆」
「はは、ごめん」

呆れたようにこちらを睨む神田を、まあまあと苦笑いで制す。 踵をくるりと返し、目的の方向へ視線を向かわせた。 標的のアクマは、4体。(…久しぶりの任務だし、)(慣らしには最適か)

小サナ王レグルス、発動。 ―――熾天使ノ羽衣(セラフィム・ケープ)。」


呟くと数秒後、心臓の熱く火照る感覚に続き、視界の端に 三対六枚の燃え盛る白い翼が現れた。それ動かすように、頭の中でイメージする。 するとそのうちの一対が、風を薙ぎ、ふわふわの羽毛が一片、二片、空に浮かんでいく。「じゃ、神田… 後で、また」「ああ」地面を強く蹴り翼を空に走らせる。
 ――小サナ王は、昔はひとつの存在だった。
オレのイノセンス、「小サナ王」は右手と心臓の裏に半分ずつ存在している。
詳しくは知らないが いつだか昔、オレの身体がイノセンスに対して拒否反応を示したらしく これは体外に出てしまったらしい。 寄生型のイノセンスは原石そのものだ。分離した際、原石の影響で気が触れてしまった教団員も何人かいたと聞いた。 その際 修理に当たったのは、教団員、そしてエクソシストでもあった父親だったという話だ。そしてその時、体外に在ったイノセンスが暴走をしないよう、これ以上教団員に影響を与えないようにと付けられた制限装置は、何の意図があったのか、体内に戻った今も「小サナ王」にその効果を残している。
(そのせいで、今でもシンクロ率は上がらないし、発動すらできない時もある。)
ああ、恨むよ? 父さん。

『…助けて』
「(わかってるよ)」

 ぼけっと空に浮かんでいると、アクマがこちらに気付いたように咆哮し始めた。耳を劈く悲鳴が、良すぎる耳に痛い。



翼で空を切る。 だんだんと増す加速に、アクマの弾丸がマシンガンのように筒から放たれるが、それはとうの昔に通った軌道へと流れていくだけだった。「…当たんないよ、悪いけど。」アクマの後ろに回りこみ、右手をそれに向けて突き出す。「森羅万象 並びに 全ての民」

「我が姿の前に 頭を垂れよ。 …グラビティ」

鋭い鈴にも似た音が、耳鳴りのごとくにあたりに響く。 大気がひとつ揺れると、アクマのボディがみしりと音を立て、少しずつへこんでいった。

『助けて‥くれ…』


声が聞こえる前に、アクマの周りへ6枚の翼のうち4枚を切り離して向かわせる。すると彼らは燃え盛る翼の炎に侵食され、光を放ちボディを弾けさせてから、魂を空に、身体を地へと散らせて行った。

「 おやすみなさい」

堕ちていくボディを目で辿ると、アクマの血が団服に付着しているのを発見し、(…ゲ。)一拭いする。当たり前のように、それは染みになり落ちることは無かった。「………、」ふぅ、と、安堵か思いがけぬ失態か、どちらに向けてかわからない溜息が口から零れる。指先についた血をぺろりと舐めとると、なんともいえぬ苦さが味覚を衝いた。「うっ、まず…!」人間の血と違ってアクマの血はとても不味いが、それでも『血の飢え』に対しては多少の凌ぎになるから皮肉なものだ。


「あーあ…そろそろ戻るかな…」

 先程 神田と別れた方向に眼を向けると、下方で何かが壁を突き抜けていっているのが見えた。見覚えのある白髪が建物の合間から覗いたのが見えて、 まさかなぁ… と思いつつもそちらの方向に翼を走らせる。すると、

  ―― フッ、

と、何かが消えるような音が聞こえ、体が建物に向かって急降下する感覚がする。(…え、おかしい、おかしい……え!?)そう思って背中に手を伸ばすといつものフワフワした感覚が無い。 熾天使ノ羽衣が、無い。

「えっ…あー‥落ち、おっ、落ちる! 落ちてんじゃねェェェ!!!」

空がどんどん遠ざかっていく気がして、叫んでみるが、特に何も変化は無かった。こういう場面で 神様のバカヤロー、と思ったのは今日が初めて、ではない。










08.07.31 一部修正