死人の言葉は憑いてまわる。
――ふと、そんな言葉が神田の脳裏を過ぎった。別に、哀悼を感じているわけでも今の自分の立ち位置に不満がある訳でもない。それなのにそんな言葉が浮かんでしまったのは、珍しく立ち入ったチャペルの隅の黒い石碑に、彼の名前を見つけてしまったからなのだろうか。

」。

それは殉職したエクソシストの名だけを綴る石碑。100年前より刻まれる名の数々がそこにはあったが、それでも探索部隊の殉職者の数には及びもしない――数名程度の名前だ。そんな極少数の文字の羅列であったから、見つけようとせずともその石碑に目を向ければの名前はいとも簡単に目に飛び込んでくる。



「あれ―――ユウ?」
「…名前で呼ぶな」


その名前を見るともなしに睨み付けていた彼へ声を掛けたのは、同じエクソシストであり同い年でもあるラビだ。「固いこと言うなって」憎めない風に笑うラビを見て、神田は鬱陶しそうな顔で眉間に皺を寄せる。――今は誰とも関わりたくない。それが彼の今現在の本音だった。「?」珍しく自分が名前を呼んだことに対して反応が薄いなと疑問に思ったラビも、なんとなしにそんな彼の雰囲気を汲み取り、それ以上の言葉を慎むことにする。神田がチャペルから立ち去ろうとするその後姿に肩を竦めた後、彼が何を見ていたのかが気になり石碑に目を遣ったところで――その黒い石に刻まれた文字に驚いた。「…ユウってのこと知ってる?」カツカツと靴音を鳴らしながら足早に神田を追いかけると、億劫そうに振り向いた黒髪が揺れる。チャペルの中ほどで立ち止まった二人の他に、たまたまと言うべきか人間はいなかった。


「昔からいる奴は誰だって知ってる」
「そうなん? ――ああでも、確かにもう『昔』の話なんだよなぁ、5年前なんて」


一人納得したように頷いてから、ラビは歩を進める。橙の髪を一瞥してから、神田もその後を追った。


「お前、あいつのこと知ってたのか」
「“ブックマン”はの父親が援助してくれてたんさー」
「へえ」
「だからちょくちょく…うん、の家には…あっ、そうだ」


思い出したように声を上げたラビが団服の内側から取り出したのは、一冊の小さな本だ。彼の手の内にあるそれを神田は訝しげに眺めたが、素っ気無く表紙に踊っている文字がどこの言語なのかすらも理解できなかったので一体何の用件なのかとラビに視線を戻す。「悪いけどに返しといてくれない?」「…それくらい自分で返せ」「頼むって!オレこれから任務なんさ!」言われて見れば、ラビはバンダナに団服といつもより動きやすいであろう格好だ。ここまで食い下がり頼まれては断るほうが面倒くさそうだと不承不承に神田はその本を受け取り、じとりと見つめるが――やはりどこの言葉なのかはわからない。

「悪いけどよろしくな!」
「チッ」
「あと…のこともよろしく。」
「――…は?」
「あいつはブックマンJr.オレの数少ない友達だから、」
「いや…だから、なんでそれを俺に言うんだ」


また不思議そうに顔を上げた神田に、今度こそラビは「あれ…?」と首を傾げてから「付き合ってんだろ?」と確認するように問うことになる。暫時不審そうに考え込んだ彼を見て、今度はラビの方も疑問を抱きつつ呆然と黙り込んでしまった。傍目から見る限りに、珍しく神田は一人の存在に心を開いているようだったし、にしても女性以外にあそこまでべたべたと懐くことはあまり無いはずなのだが――もしや自分の早とちりだったのだろうか。そうだとしたらオレはなんとも見当違いな事を他人に願う困ったちゃんだということになる、それは不味い。表情を変えることなくそこまで考えたラビは、特に不機嫌そうでもない神田の雰囲気にホッと安堵した後に「ユウ、」と声を掛けたが弁解を述べる前に目の前の男に言葉を遮られてしまった。「…それは、」


「うん?」
「あいつがお前にそう言ったのか?」
「え? 違うさ」
「俺は、」



 神田の瞼がゆっくりと落ちる。目を細めたところで、何かを思い返しているような、はたまた言葉を選びあぐねているようなほんの少しの時間を置いたあと、はっきりとした視線をラビの焦点に合わせ、口を開く。


「――との約束に従って、あいつの傍にいるだけだ。」


正面から射抜かれるような視線をまともに受けたものの、ラビはぱちくりと目を見開いて首を傾げてしまった。語調も語気もその気圧されるような視線も、全て何時もの神田ユウそのものであったが――いささか、そう、なんだかこちらの調子が狂ってしまうほどに彼の放つ雰囲気は『疑問』と『動揺』に溢れていたから。
との関係性への質問にこう動揺されてしまっては、との約束の内容なんていうのもラビにとってはごく簡単なパズルにしか感じられない――あの妹煩悩に頼まれることと言ったら「を護ってほしい」とかそんなところなのだろう。むしろあまり周りを頼ろうとしなかった彼に関しては、それくらいの事しか思い浮かばないくらいだ。



「好きとかそう言うんは無いの?あっちはそうみたいだけど」
「好きも何も…あいつはのものだろ」
「 そんな約束ばっかに縛られるのもどうなんかね」



神田の知らないところで核心に触れてしまったラビは、思わず呆れ笑いで肩を竦めることしかできない。この友人はとても頑固で融通の利かない面があるものだから―そう、よく言えば律儀な男であるから、きっととの口約束をそれはもう大事なものだと信じて疑わないのだろう。


「…約束も守れない奴に何が護れんだよ」



死人の言葉は憑いてまわる。
と神田がどういう関係だったのかなど、詳しいことをラビは知る由もないが、きっとその口頭のみの言の葉に縛られる程度には、執着しているのだろう。神田ユウは、という男に。の言葉の上で踊らされている神田とが多少不憫なようにも思えたが、一歩引いたところで見ているラビにとってはその三人の関係性がとても愉快で、興味をそそられるもののように思えた。


「それもそうさね」


素直になれば良いだけなのに。
当たり障りの無い言葉を返したラビが心の中で微笑ましく笑っていたことを、神田は知らない。




***






 黒の教団、ヘブラスカの間よりも下層に点在する火葬場というのは、どうにも独特の雰囲気をかもし出す場所で――オレは不気味という他に、“そこ”を表現する言葉を知らない。
棺の中の功労者を見送る豪奢なエントランスは、壁際でたゆたゆしく揺れる蝋燭の明かりで慎ましやかにその輪郭を主張していた。人の出入りがそう頻繁にある場所では無いので、安穏と暮らしていた蝋の光は久々の訪問者に驚いたのか、極少数ではあるがその命を白い蝋よりも先に消失させてしまっている。


「レグルス」


 冷え切って固まる蝋燭の先端に触れぽつりと呟くと、ポッとオレンジ色の光が灯った。右手を引っ込めることを失念していたせいで、あっという間にじりじりと音を立てて人差し指が焦げて行く。あーなんか焦げ臭いどうしよう。
「(火には弱いな…)」
眉を下げてちろりと指先を舐めると、昔にが焦がした夕飯の牛肉みたいな味がした。美味しいとは言えないけど、不味いとも言えない。 懐かしいなあ、そういえばお腹が減った。喉も乾いた。イノセンスの使いすぎで血が足りてない気がする。
誰も救えなかったくせに人の命を欲する。何も助けられなかったくせに、どうしてもと生きようとする。
――そんな自分の身体が卑しくて、たまに嫌になる。



「――くん。」


 薄暗く、決して広いとはいえない通路に響いたのはコムイの声だった。「コム、イ…室長」右手を引っ込めて壁に凭れていた背中を引き剥がすと、エントランスから少し通路側へと顔を出した男の下へ歩み寄る。いつもの親しみやすい優しい雰囲気はなりを潜め、今のこの場では鋭いその目がとてつもなく頼もしく、逆らい難いもののように思える。


「こんな所までついてきてもらってすまない」
「…というか、やはり私も参ります。現場の話は牧師様よりも私のほうが、」
「大丈夫だよ」


荘厳とした緊張感溢れる暗い空間で、コムイは柔らかい微笑を浮かべた。ここがもし上階の科学室や療養室であったのなら、オレの頭を撫でてくれていたのかもしれない。包まれるような安心感を覚えつつも、それと同時にじりじりと焦げ付くような渇きが、焦燥が、自分の身に訪れていることに気が付き心中穏やかではない。牙がむず痒い疼いている、コムイの首元に目が泳いだあと何故か彼の血液型はABだったな、などと実にどうでもいいデータを思い出してしまい自己嫌悪に陥った。自戒のつもりで唇を結びそこに左手を添えると、いつもより近い位置にコムイの苦笑いが見えた。身長が、伸びていたからだ。


「悪い…じゃなくて、ごめんなさい」
「もし君の話が必要と言われたら、明日聞くことにするよ」
「はい、」
「神田くんがもう帰ってきているはずだ。」
「 神田…」
「行きなさい。」


気を遣わせてしまっている事実には申し訳が立たない。言葉もなしに頷いた後、角度にも時間にも気が回っていない情けない一礼を残して、オレはくるりと踵を返した。



「そう、無理はしない方がいい…君のためにも、皆のためにも。」






***






『約束ばっかに縛られるのもどうなんかね』



 ――ラビから託された本をそういえばと手に取った時、神田は思わず彼の言葉を思い出した。

(…俺だってそう思ったことが無いわけじゃない)

遺言のような死人との約束は、言うなれば無期限の契り。それと同時に、いつでも破れる儚いものでもある。現には彼に希望を持たせるような嘘を吐いたし、生きて帰ってきて神田が勝つまで稽古をつける、なんていう約束をものの見事に破った。だから、思ってみれば神田がその約束を律儀に守るというのも大層吊り合わない話なのだ。だがそれでも、彼はその約束を尊んだ。が約束を守らなかったのだとしても、自分は守る。それは一種の子供の意地のようでもあるが、ラビの睨んだとおりという男への神田なりの執着でもある。

 『を護って』ほしいというのは、恐らく彼女の行く末を見守っていてほしいという意味だと神田は受け取っていた。憎しみと怒りと悲しみに、たった独りで彼女が溺れてしまわないように、――彼女が本当の意味での孤独になってしまわぬよう、忌避すべき事柄の防波堤になること。その為には、神田は彼女との間に一線を設ける必要があった。もしかしたら、その存在性にはブックマンと似た性質があるのかもしれない―――主体と対象は、いつだって同じ色になってはならないという、類義性が。


 その類義性に不幸があるともするならば――神田とにも人間の感性と心が備わっていること。


人生のどん底から新しい世界へ手を引いてくれて、傍らで静かに見守ってくれた男には彼女だって笑顔以外の表情も見せるし、彼だってしつこく懐かれれば、彼女があまりにも幸せそうに笑うならば、――たまにはその笑顔と柔らかそうな髪に触れてみたいとだって思う。ただ、その手を伸ばせる程の、一線を取っ払えるほどの、些細な勇気と密かな裏切りが彼にとっての問題であった。



――コンコン、



ふいに扉が軽い音を立てた。任務への徴集にやってきた団員かと神田は反射的に気配を探ったが、どうやら人間の気配ではない。「…入れ」ぼそりと呟いただけの声だったが、予想通りの来客ならばこれしきの音量拾ってみせるだろう。神田の思惑通りというべきかただの偶然なのかは図りかねるが、ほんの少しの間をおいて扉は開く。隙間から顔を覗かせたのは、普段よりもすらりとした長身ではあったが滅多に見かけない白髪と紅眼は間違いなくのもの。

「…!!」

神田と目が合うなりきらきらと目を輝かせた彼女になんとなく嫌な予感がした彼は、思わず手元の本を密かに構え迎撃の準備をする。


「…た…っ…!」
「…ああ?」
「ただいまああああ!!!」


数歩跳ねるように駆けたかと思うと、ベッドに腰掛けていた神田の元にがダイブする。飛び込んできた彼女の顔面にラビから預かっていた本をガッと押し付けると、不恰好な体制で神田の隣にずるりと倒れこんだ。


「おかえり」
「い…痛いッこれ軽く鼻とか潰れちゃったんじゃないかな…!」
「引っ張ってやろうか?」
「潰れていた気がしたが気のせいだったぜ!」



鼻を押さえたままではあるがしゃきりと体制を直したに、神田は小さく息を吐いたあと無言で手元の本を彼女に押し付けた。「あれ?この本は…」じっと表紙を見つめるに「ラビから預かった」とだけ告げると、彼女は暫時首をひねって考え込んでいた様子だったがやがては「ああ!1年位前に貸したやつ」と思い当たった風に本を掲げ、上機嫌にぱらぱらとページを捲る。


「…、」
「うん?」

目次録を指でなぞっていた彼女は突然呼ばれた名前に顔だけ上げて返事をした。じっと瞳の中を見つめてくる神田に微笑みながら首を傾げ、話があるのだろうかと続きを促すと彼は逡巡するような沈黙を置いてから、自らに確認するかのようにゆっくりと言葉を並べ始める。


「約束が守れない奴にも、守れるものはあると思うか?」


神田からの問いかけはにしてみればひどく突拍子も無いもので、そして予想だにしないものでもあった。


「…それオレに聞く?」



眉を下げて困った表情を見せると、うーん、と唸り頬を掻く。それは彼女が困ったときに相手と間を置くためにする一つの癖のようなものだった。――本をぱたんと閉じると、「どういう風に返したらいいのかわからないけど、」と前置きをして、ベッドのシーツに寄った少しばかりの皺を見るともなしに見つめつつ口を開く。


「たくさんあると思うよ」
「たくさん?」
「具体例を挙げるのは、…オレには難しいけど。」


困ったように顔を上げてからは首を傾げながら曖昧に微笑み、じっと瞳を覗き込んでくる神田に何か迷うような間を置いた後、彼女は恐る恐ると言った。


「神田に何があったのかもわからないし」


 口に出したところで、ああそういえばオレって神田のこと何も知らないな、とは思い出したように心の中で気が付く。神田とが初めて出会ったのは、が12歳のとき―――そういえばに連れられてきたんだったな。昔のことを思い出した今では8年分もの神田との記憶が彼女の中にもあるわけだから、『何も知らない』というには語弊がある所だが、は確かに、『神田ユウ』という一個人の歴史については一切を知らない。
彼女自身が知る必要をあまり感じていなかったし、下手に相手のことを少しでも知ったら――『支配欲』や『独占欲』のようなものがの中に生まれかねない。彼女が勝手に自分の中に設けた“箍”(たが)のようなものは、恐らく紅い眼をした彼女が神田に好意を抱いて以来ずっとの心の片隅に存在している。神田ユウという一個人に依存をしないため――ひいては、彼女が自分の存在意義を見失わないために。


 爛々とした紅い眼を持つ吸血鬼が何よりも重んじるものは、神田の言う"約束"のようなものではないし、彼に感じている積もり重なった強烈な好意でもない。それは昔、泣き虫な女の子だった頃の自分や――小さいころの、どうしようもなく頼りない存在だったリナリーのような『弱い存在』だから。



「…ああ、そういえば」


心の中を様々な考えが行き交ったあと、はすこしだけ寂しげに笑った。


もね」
「…?」
「約束はあんまり守ってくれなかったけど、」


懐かしいアルバムを捲り返すように、幸せそうに語りだした彼女の言葉はそこで一旦止まる。目の前に座るを見つめていると、神田の方まで何故だか昔のことを思い出してしまう。『破るくらいなら最初からするな』『言い訳くらいしてみろ』、そうに非難をしてみると、彼はいつも土下座でもするのではという勢いで謝る割には、――後悔をした様子は微塵もなかった気がする。

 神田がそこまで思い返したところで、の笑い声が幸せそうに転がった。


「オレのことはいつも、大事に守ってくれたんだ。」


そう言うと今度は彼女のほうが神田の瞳をじっと覗き込む番だった。


「約束はもちろん、すごく大事だけど、――他にも大事なものってあるだろ? 、神田の言葉は『約束を破ってでも守りたいものがある』っていう風に聞こえる。それとももう破っちゃったのか、」
「…」
「 ちなみに、いまいち約束というものを信頼できないオレのその他大事なものを聞いてくれるかい?」


おどける様に肩を竦めるに視線だけで話の続きを促すと、彼女はそのままの気取った様子で一旦口を開いたが――言葉に詰まったように口を閉じた後、神田の目をちらりと見てから少し俯いてしまった。


「なんだ?」
「…神田が…、」
「俺が?」


の視線は這うようにゆっくりと持ち上げられた。鮮やかな紅色の瞳と視線を交わすと、そこから飲み込まれて自分までその色に侵されてしまうのではとたまに危惧してしまう。それほどに強い紅だった――彼女も神田の黒色には同じような思いを孕むことがあった。意識するのは、ひとえに同じ色になってはならないから。


「オレは神田が大事だから、」
「――――――…っ、」
「後悔をして欲しくないんだ。自分の気持ちに嘘を吐くことはしてほしくないし、それは神田には似合わない」



迷いのない強い眼差しはそう言い切る。神田にしてみれば何も解決しない回答ではあったが、彼女にとっては嘘も言い過ぎたこともない、過不足のない素直な言葉だ。すこしばかりあっけに取られている様子の神田を見て、質問をされたのは自分だったのにもかかわらずスッキリとした後味を味わったのもまた自分だけだったことにようやっと気が付き、は焦ったように「ああー…、」と唸った後、誤魔化すように曖昧に笑ってから


「苦情は受け付けないからな!」


と、やはり曖昧な先手を打った。自分の気持ちを相手に理解して欲しいという性格は彼女の美点でもあるが、時には押し付けがましい突っ走り屋な短所にもなりがちである。自分の身を擁護するかのようにもぞもぞと膝を抱えだしたに、神田はなんとなく声を掛けた。

「おい」
「な、なんだよ」


ピクッと肩を反応させて彼女は恐々と神田を見た。「大体そういう難しい千差万別十人十色な話はくんに、」「違ェよ、…前から気になってた事があるからついでに答えろ」ゆっくりと顔を覗き込むと、じっと真っ直ぐに視線が交わった。


「お前は俺の何がそんなに好きなんだ」
「 は」
「俺はに言われて、お前の傍に居る」


一度はじわりと頬を染めたは、彼女の兄の名を出されると段々と驚いたような表情を見せただ神田を見つめる。


「俺は――お前ばかり見ているわけじゃない。探し人だって居る。それでも、俺が好きと言えるか」


この機を逃したらいつ言えるか分からない――後悔をしないようにそう打ち明けたつもりだったが、唖然とするの顔を見ると既に少しばかりの後悔がさざなみのように神田の心を打つ。


「ああ…っふ、ははは」


だから突然が笑い出したときには、神田にしては珍しく『驚き』という感情をそのまま顔に出してしまった。笑ったせいか胸元にまでやってきたみつあみを自分の背中にまで戻すと、は微笑ましそうに神田を見つめて「そうか、そんな秘密があったのか…」と愛おしそうに呟く。


「オレにもさ、ちょっと不安なことがあって」
「不安なこと?」
「未だにのことを引き摺ってるようなブラコンだっていうのと」
「知ってる」
「…女の子のことは、神田より優先的に守ってあげたい」
「元からお前に守られるつもりはねぇよ」
「そっか……良かった………」
「…? 待て、それだけか?」


訝しげにを見詰めると、彼女はふっと嬉しそうに笑い「うん、…『それだけ』だな」と頷く。


「オレも、周りが見えなくなるときはあるけど、それでも神田のことを好きでいるよ」
「…、」
「いまさら嫌とか言っても聞く耳ないからな!」


照れたように幸せそうに笑う彼女を見て、思わず神田は目を細めた。彼女の懐は小さな身体に似合わず深くて、恐らく羊水のように温かいのだろう。沈んでしまえば楽に、何か幸せというものの片鱗を少しずつ集められるのかもしれない――神田はそれが怖かった。それはまだ、彼は自分が手に入れてはならないもののような気がしていたから、落ちて溺れないようにと自分を抑える。自分の気持ちを抑えてでも、彼女にも自分にも後悔をさせたくなかったから。





そっと神田の指先が彼女の髪の輪郭に伸び、名前を呼んだ。


「抱いても、良いか」





「…、えっええそんな心の準備がっ…!!」
「てめ…変な意味じゃねえよ阿呆女…!」
「 それは残念!」
「お前な…」
「ははっ」


ずりずりと膝を引きずりながらが神田の膝の目の前までやってくる。座っているせいか膝立ちの彼女の視線は神田よりも高い位置にあり、微笑ましそうな――下手をしたら愉しそうなその目に暫時見つめられ、神田は改まってこんなことをするのが思った以上に気恥ずかしい行為だとようやっと気が付いた。「……」そろそろと背中を引き寄せると、その動きに合わせてが膝の間に収まったのでやんわりと身体を包む。「…神田、意外と男らしくないな」「何がだよ」「マテールではあんなに情熱的なキスをしておい、って、いた、あいったたたたたたごめんごめん痛い!みつあみ痛い!!!」長い髪の毛を思い切り引っ張られて、上に向いたの顔と首の接合部がゴキッと嫌な音を立てる。


「あれは…」
「クッ…何さ…!」
「気の迷いだ」
「それ照れ隠しだとしてもショックなんだけど!」


寝違えたときに似たような首の違和感を摩りながらが叫ぶ。神田だってまだ若い男であったから、ほんの少しの頻度、それこそ気の迷い程度の事であったとしてもたまには劣情を抱くことだってある。ほんの数ヶ月前のことをそんな彼女の言葉で思い出して神田は思わずチッと忌々しげに舌打ちをした。「舌打ちまで!?」ショックを受けているような口ぶりではあるが、目の前のこの二つほど年上の女は間違いなく微笑ましげにこちらを見つめ返していた。下手をすれば反抗期の弟を見守るような――それも、にやにやとした表情で。


「気持ち悪い顔してんじゃねーよ」


ガッと顎を掴んでぎゅうと握ると上手い具合に先ほど傷めた部分が刺激されるのか、は「痛い痛いごめんごめん!」と焦ったような悲鳴を上げる。それでもなかなか解放されることのない顎と首にいい加減危機感を覚えた彼女は、神田の腕に手を添えて彼と視線を合わせた。「神田、本当に、」痛いから放して。そう告げるよりも早く彼の掌の力が緩み、代わりにじい、と黒曜石の瞳が睨むように紅色を見詰めた。交わった視線を逸らすことは両者ともできないことだったので、瞼を閉じるということで解決する。


――恐らく、後々になって見れば神田の中では『気の迷い』ということになるのだろう。


唇から離れた神田のそれがの瞼に触れたところで、彼女の手のひらがするりと神田の肩を這う。

「ねえ」
「 なんだ」
「雰囲気ブチ壊すこと言って良い?」
「…なんだよ」



先ほどとは打って変わって余裕のないの声に、神田は思わず身体を離して彼女を見据える。久しぶりに彼女を見たことと、神田自身色々と余裕がなかったために見過ごしてしまっていた事実。そういえばの身長が自分とさして変わらないものになっていることを今思い返した神田は、その事実に少しだけ眩暈を覚える。









「……さっきから血が…全然足りてなくって…」




今の彼女と同じように、自分も少しばかり飢えていたらしい。






***




「ごちそうさまでした」



律儀に手を合わせてそう言われても神田としてはなんと返してよいか分からない。「気分悪いとか…大丈夫か?」「ああ」ただ少し、の人より鋭い小さな八重歯の刺さった場所が痛んでいたが――それもすぐに彼女のイノセンスが消してしまったので問題は無くなる。探るように首筋に手を当てている神田を見て、彼女は少しだけ紅潮した頬を隠すように俯いてから「ありがとな」と小さく呟く。



 神田は傷を治すとき、性急な細胞の流動によって熱が上がるのだというが、彼女の場合は他人の熱い血液が自分の身体に浸入ってくることにより熱が発生する。特に男の血は、――麻薬で媚薬だった。脳から足の先まで甘い刺激がちくりちくりと身体を突いてくるので、困ったなと息を吐くと思ったよりも熱っぽい吐息が零れてしまいちらりと神田を見る。彼が忙しいときや疲れているときは、どうにか平静を保って一人でうじうじと丸まり熱が冷え込んでいくのを待つくらいの甲斐性を彼女は持ってはいたが――見た限り元気でさして忙しそうでもない様子の神田を目の前にしてしまっては人肌に温もったその指先を彼の頬に這わせるのも、時間の問題だった。



「…神田」
「なん…だよ」
「抱いても、良いか …だっけ?」
「…ッ人の言葉を…」
「いやオレの方はもちろんいかがわしい意味でだけどね!」
「くたばれ!」




にやにやとからかうように言葉を並べられては、しっとりとした雰囲気どころかいつもの二人のペースにしか思えない。じりじりと膝立ちで近寄ってくるに神田はずるずると後退を続けていたが、やがてはベッドの柵際まで追い詰められてしまう。ちらりとその視線を彼女に向けると、はその神田の目に気が付いたのか、ふにゃりと溶けるような笑顔を彼に向ける。




「何デレデレしてんだよ」
「神田のことが好きだからじゃない?」



至近距離で幸せそうに笑われ、彼は言葉を失った。何か言いたげに口を開いたものの結局は何も言えずに口を閉じると、頬を少しだけ染めて気まずそうに目線を散らばした。その様子をいとおしげに見守るの指先が、神田のさらりとした黒髪を耳に掛ける。その指先を追うように視線で辿ると、神田の目との目がばちりと合った。額がこつんと触れ合うと、の指先が再度神田の頬を撫ぜる。「目、瞑って」。思い出したように急いで瞼を下げた神田に、は思わず唇を綻ばせた。





「神田」

「好きだよ、大好き」

「約束なんかいらないから、ちゃんと生きて帰ってきてね…」