ええとたしか、あれはオレが医療班の班長に起用されてから――久しぶりに任務に出る日のことだったかな、うん。 あの日に関しては…そうだなぁ、天気だとか、風の吹き方とか、空気のにおいまで覚えてるよ? だって、感動したんだもん! え、なんだよ酷いな、気持ち悪いだなんて言わないで聞いてくれよ。 たしかにもしかしたら惚気にしか聞こえないかもしれないけど――オレたちにとってはけっこう大事な記憶のひとつなんだからさ。 なっ神田! …え、うるさい…? ねえちょっとオレ泣いちゃうよ!?





時計の短い針がぐるっと回って4の数字を指していた朝。なんとなく肌寒くなった気がして目を覚ますと、別に布団が下に落ちたとかそういうわけでもなく――ただ自分が確保していたスペースの隣が温かったのを感じたから、今までここに居た黒猫ちゃんがいつもどおりオレの寝ているうちに布団に潜り込んできて、オレの起きないうちに鍛錬にでも出たのだろうということは容易に想像できた。人が居なくなれば布団は冷めるばかりで、そりゃあ肌寒くなるよなという思考はおまけ程度に付け足しておく。

 任務を今日に控えていたから昨日は早めに寝付かされたオレは、とくに眠くて死んじゃいそうというような非常事態に陥ることもなく順調に朝の準備をしていた――はずだった。事の発端は…そう、ここからの出来事となる。

 神田が鍛錬から帰ってきて、10分くらいお風呂場に篭る前からオレは髪を結び始めた。そのころ髪の長さはまだ鎖骨に寄り添う程度で、うしろにちょこんと一つ結びするだけのことをすればよかった。



『 あれ』
『お前、なんでそんなこともできないんだ』
『…えーと……やったことがないからかな!』
『威張んな阿呆』


 それだけのこと、のはずだったんだけどな。
櫛を片手に鏡を睨み付けていると、軽くシャワーを浴びてきた神田がオレ以上に苛ついた声を出した。
なんというか、そのとき初めて気づいたことだったのだけれど、オレはどうやら髪を自分で結うのが病的に下手らしい。最後の詰めが甘いのかただ単純に不器用なのかはわからないけど、擬音で表すなら“びよん”とか“ぼよん”とかいった感じで髪の毛が浮き上がってしまう。
神田が濡れ羽色の髪をうっとうしそうに後ろへ流しながら近づいてきたので、解いてからもう一度結びなおすことにしてみた――が、やはり今回も時間がかかったばかりで残念な“びよん”に終わった。


『…下手糞』
『(反論できない!)れっ、練習すればオレだって!』
『いちいち声がデケェ』
『うう!なんでそんな一気に責めんの』


否定するようなことを4連続でキメられたら流石のオレもちょっとへこむ。とりあえずこの“びよん”をどうにかしようと手を髪に遣ると、オレが髪留めに触れる寸でのところでそれが解けた。
あれ、と思ってぺたぺたと後頭部を触っていたが、それらしきものが見つからない。あれれのれ、後頭部を抑えたまま後ろを振り向くと――神田が呆れた顔でオレを見下している。その手には先ほどまでオレの髪の毛を“びよん”させていた水色の髪留めが握られていた。


『貸せ』
『…えっ?』
『時間の無駄だバカ』
『うわッ5連撃!』






「どこまで伸ばすんだ?」
「―――え」



 神田がオレの髪の毛を結いながらそう問いかけてきたのは、朝と呼ぶには少しだけ早すぎる――あの日と同じような時間だったかもしれない。
オレと神田の間にはいくつか習慣化していることがあった。習慣とはいっても、その殆どはオレがしつこく神田にせがんたり我侭を言ったりして、彼がそれを叶えることに慣れてしまった――というパターンなのだが、もちろん例外もある。
その例外というのがこの髪を結んでくれるという行為であって、神田とオレが朝一番に顔を合わす日の習慣でもあった。 あの日から1年くらい経って、元々髪の毛を伸ばすのも伸ばさないのも自分の意思次第なオレは、神田に気に留められない程度のスピードで髪を伸ばすことを選んだ。
 今では腰の少し上程度まで流れていて、これ以上伸ばすことは、多分ないと思う。というのがオレの答えではある。


「どうしよっかな」


答えはある程度決まってるくせに、わざとらしく悩むポーズをとってみる。
 オレが髪を伸ばすことにしたのは理由があった。さらに突き詰めていくと、昔はただのひとつ結びだったのに今では三つ編みにしてもらっているという所にも、オレのさりげなーい恥ずかしい想いが詰められていたりもするんだよな、これが。


「もしかして、そろそろ結ぶのが面倒くさい長さ?」
「…そうとは言ってない」
「そう?」
「ああ」
「ふーん…」
「………」



髪を結んでもらっている立場上、眠くて死んじゃいそうという非常事態以外には神田に背を向けたまま動かないというのがオレなりのルールだった。体育座りのままねっとりとした返事を返したせいか背中に刺さる神田の視線がすこし痛い。今までわりとゆっくり髪を編みこんでいた神田の手がちょっとだけ急ぐようになると、あっという間に三つ編みはできあがってそれの毛先がピンと放り投げられた。


「終わった」


オレはいつもこの言葉を皮切りにして神田の方を振り向く。ずりずりとベッドの上を膝で歩いて、神田の胸元に飛びついた。決して抱き返すなんて素敵なことはしてくれないんだけど、頭や背中を撫でたりということはしてくれるようになった。オレはこういう部分は子ども扱いされることのほうが好きだったので、もしかしたら今、抱き返されるより心が温かくなっているのかもしれない。
布越しに暖かい体温を感じて、オレは扱いに応えるように子供っぽく「あのね、」と切り出す。


「どこまで伸ばすかはわかんないけど、絶対これより短くはしないって決めてる」
「へぇ」
「 知ってる?、これ、願掛けを具現化したものなんだ」



顔を起こして、三つ編みをちょいと掲げて自嘲気味に照れた笑いを零すと、神田は綺麗な目を少しだけしばたかせた。

神田は任務の多いエクソシストで 元々あまり一緒にいられるような人じゃなかったのに、オレまで医療班長に仕立てられちゃってさ。懐いた黒猫は部屋の鍵を開けておけば、寝るときはふらりと布団にもぐってくるけど 起きるのはなんとオレより早いんだぜ? 鍛錬から神田が帰ってくるころなんて、オレはどうせ寝坊してばたばた朝の準備に取り掛かったりしてるに違いない。昼間なんてオレはほとんど手術室とか臨床室に閉じこもってるからもっての他だし。

だから、ね。 ちょっとでもくっついて居たかったから、オレは髪の毛を媒体に願掛けしたんだよ。だってほら、朝の準備って言えば、おりこうさんで野暮ったくないくんは、大抵のことを許してくれるから。


「知らないだろ」


まあほら、そんな乙女心を神田に披露する気もないから、オレはきっと今日もこの先もそんな理由なんて口に出さないに違いなかった。
自分に呆れ笑いをプレゼントして再度神田の顔を見ると、ぱちりと目が合ってそのままじっと見つめあう。ここまで真っ黒な瞳というのをオレは神田に出会うまで見たことがなくて、ついつい目で追ってしまうきらいがあった。――目ばかりに気を取られていたせいか、神田の口元が少しだけ上がっていることに気づくのが少し遅れてしまった。
 えっうそ珍しい!そんな感動を覚えたころ、オレはほんの少しだけど、緩くゆるく神田に抱き返されていた。今日は、どうにも反応が遅れる日だ。実感までもが神田の珍しすぎる動作を「これは偽者なのではないか」と疑っているかのように二の足踏んでいて、数秒経ったころやっと胸の辺りがじわじわと暖かくなってくる。あれ、もしかしたら、もしかしたらさっき頭撫でられたのより、嬉しい、かもしれない?


「お前こそ知らねェだろ」
「…なに?」
「俺がこれから何年、髪を結わされると思ってる」


疎ましそうに神田がぼやく。しかもトドメといわんばかりに舌打ちが添えられた―が、厳しいのは口調ばかりで、彼の瞳はとても暖かい色になっているのをオレは目ざとく目撃していた。そのせいで思い切り口元が緩んで、頬も赤く染めているであろうオレを見て神田がふんと満足げに笑う。額と額がこつんとぶつかる音がすると、神田の唇が小さく小さく悪戯に囁いた。「だから、」



「奇遇だな」



DNA
「つーか知ってた」
「うっ、嘘だ!」
「お前はわかりやすいからな」
「神田わかりにくいよ!」