日和


 
触れたと思ったら、じわりと溶けて無くなっていく。その繰り返し。
まるで雪のように儚い子だった。








―――19世紀末、4月1日 AM10:56.


 今日も今日とて書類の山と部下の呻きと時折聞こえてくる室長の安らかな寝息。
いや、最後だけ少し、いや、かなり――このクソ忙しい黒の教団本部科学班には相応しくないものも交ざってはしまったが、つまりは今日も今日とて、彼はその色々なものに追われて今ようやっと遅めの朝食を済ませたところだった。


「(ああ戻ったら早くに渡す任務のデータ解析してやんないと…あーでもどうせ室長がまた寝てるんだろうから、その前にコーヒーでも淹れないと駄目か)」



ふう、と大きく息を吐くとそのまま吸い込んで深呼吸をする。首の後ろに手をやって部分の疲れを労わるように摩ると、少し先の角から見知った少女が現れる。それは先ほどリーバーが心中で名を出した人物の一人であり、噂をすればなんとやらだなとありきたりな独り言を彼は心の中で浮かべた。


「おはよう、
「…おはようございます、ウェンハム班長」


いつも通りの、ただの挨拶のつもりだった。
それが彼の“日常”とどう違ってしまうのかと言えば、美しい会釈から顔を上げた彼女がふらりと力なく倒れこんでしまったことにある。


「―――っと! おい、大丈夫か?」



躓いたというよりは意識を飛ばしたような倒れ方だ。

リーバーは寸でのところで彼女の細い身体を受け止めると、そのまま驚いた調子でに尋ねかける。


「も…申し訳ありません、問題ない、です…」


はぁっ、と彼女が小さく息を吐いた後にそう述べてリーバーの懐から立ち上がろうとしたが――力が入らなかったのか、再度体重を彼に預けることになってしまった。「?」彼女の身体から伝わってくる熱が微妙に熱い。まさか、と思い一度は沈黙したものの、リーバーは「ごめんな」と言うが早いか、の顔から眼鏡を外すと額にぴたりと手を当てた。
そこに帯びる熱が彼の推測で高熱に分類されるものだという判断が下ったとき、リーバーはそういえばが数日前から微熱気味らしいという、彼女にとりわけ良く話しかけている様子のジョニーが言っていた話を思い出す。


「――…、」


歩けるか、そう尋ねようと思っていた彼だったが、すでに懐で落ち着いたように浅い呼吸を繰り返す彼女にそれを聞くのは野暮なことだと思い直す。教団本部に来てから1年ほどが経つリーバーは、殆ど同じ時期に本部へとやってきたこの少女のことを全く知らないというわけではない。彼女は『大丈夫か』と聞けば『大丈夫です』、『できるか』と聞けば『必ずやこなして御覧にいれます』と答えてしまうような、生真面目で融通の利かない人間だった。それは、例え自らが重体のときであっても変わらないのであろう。

リーバーは静かに眼を瞑ってから少しの間を黙考すると、の眼鏡を自分の白衣の胸ポケットに挿したあと彼女の身体をひょいと持ち上げた。



「…やく…そく……が、あるんです」



二歩、三歩と進んだところで彼女の口から呟きのようなものが零れてくる。



?」



立ち止まって彼女の顔を覗きこむようにリーバーが首を傾げると、は彼の表情もよく見えないのか目をスッと細めてからフッと力を抜くように閉じ、もう一度辛そうに持ち上げる。


「昼食を、リナリーと…神田と」



自分がこんな有様のときにする心配じゃないだろう。思わずリーバーは呆れ笑いをして止めていた足を動かす。



「大丈夫だ。二人にはちゃんと伝えておくから。 とりあえずお前の部屋に戻って、ドクターを呼ぼう?」


ゆっくりと、安心させるように優しくそう伝えると、の瞳には安堵の色が浮かぶ。それを見たリーバーもまた、安心したように微笑んだ。 「ウェンハム班長、あの」「いいよ」普段は凛としているはずの声が、今日は少しばかり頼りない。すっかり眉を下げてしまった少女の表情に彼女の心情を察した彼は、すぐさまその発言を押し留める。


「もう喋らないほうがいい」


謝罪の言葉よりも、早く普段どおりの彼女の凛とした声が聞きたい。その一心の言葉に、はぼんやりとした目を一度だけ瞬きして、すぅっと閉じてから小さく頷いた。





***




 リーバーがを運び込んだ彼女の私室というのは、驚くほどに殺風景な部屋だった。
一般団員よりも生活感の無い部屋、というのはエクソシストの立ち位置を考えると宿命なのかもしれないが――医療班で治療を受けたあとに自らの判断で解いたのであろう包帯や、消毒液なのか血液なのかがこびり付き固まったガーゼ(乾いてからずいぶんと時間が経過しているようなので、どちらかの判別はつかない)などが部屋の床に雑然と放置されている。総合管理班から戻ってきた洗濯済みの衣服は備え付けの机、椅子の上からベッド、そして床の上と場所を選ばず置かれている。
 彼女のことを知っている人間の凡そはのことを几帳面な人種だと思っている―――その外見と性格を見る限りでは『少しばかり敬虔が過ぎる、寡黙で真面目な少女』なのだ。リーバーにしてみれば、この部屋の有様を見てもの評価が下がるとかそう言ったことは無いのだが――如何せん意外すぎたので、呆然と包帯の山を見つめては勝手に感傷的になってしまったというのはある。



「今日は…何月何日ですか?」


のぼんやりとした声がリーバーに尋ねた所で、彼ははっとしたように他所へ向けていた意識を彼女に戻した。


「4月1日だな」
「4月…、」
「とりあえずナースか医者を連れてくるから、少し待っててくれ」
「あの、ウェンハム班長」
「うん?」
「そこの棚の、一番下の引き出しに…」


額の濡れタオルを押さえながら少女が指差したのは、ベッドサイドにひっそりと置かれている小棚だ。「薬、が」というの小さな呟きにリーバーは状況がいまいち掴めないまま小棚の前に屈みこむ。既に診療を受けて薬はもらったが『約束』とやらの為に外出して倒れかけたところで自分と出会ったのだろうか――その憶測は引きあけた棚の中に現れたものが5ミリ程度の液体と注射器であったことにより、中途半端に彼の思考から除外されることになる。


「薬の時期だったのですが、“博士”がお亡くなりになってしまい…」
「は、…博士?」
「私、自分では投薬できない決まりなのです…」
「いや、待てよ。薬ならドクターに頼もう。」



オレもお前も専門外に手を出したって碌なことにはならないだろう。熱のせいで判断を急いているのだろうと考えたリーバーは、を宥めようと目を合わせて喋る。薬液の正体が何かもわからぬ状態で投薬をして、エクソシストに何かあったでは洒落にならない一大事なのだ。


「…ドクターを信用していないわけではありませんが」


合わさった視線を一旦ゆっくりと外し、天井を仰いだ後には目を瞑る。ふぅ、と繰り返し辛そうに息を吐き出す彼女は素人目から見てもただならぬ熱病を抱えているように見えた。


「――私は…」



辛そうな少女を見ていられず通信用にと与えられているゴーレムを引っ掴んだリーバーではあったが、刹那、ゆっくりと瞼を開けたのその行為が何か神聖なもののように思え、思わず口を噤んで手を止める。



「あなたに、…、」




途切れ途切れにそう頼む彼女の息は絶え絶え。
暫時は眉根を寄せ、薬液が何なのかを見定めようとしていたリーバーだったが、無色無臭のそれが何であるかの決定的な証拠は何も見つけらず、信頼の眼差しと今にも事切れそうなの様子を看て、やがては決意したように彼女へ声を掛けた。


「…わかった」





***





 彼女、――・インビトロが生まれたのはほんの些細ではない焦燥と好奇心によるものである。
男の子であればカエルにカタツムリ、子犬の尻尾。女の子であらばお砂糖とスパイスに、この世の素敵なもの全て。
そう言った存在であれたならば彼女も幸せだったのかも知らないが、事実としての彼女はしっかりと人間の卵から人為的に作られている。彼女が最初に意識を覚ましたのは、母の胎内ではなく大きな試験管を連想させる装置の中だった。琥珀色の液体はほんの少し色の付いた強化ガラスの中で、時折ゴボゴボと音を立てながら酸素の泡をたゆたわせる。


不意に、つぅ、と、装置のガラスにひとつの手が伸ばされた。


装置の外には、ひとりの男。




「青薔薇博士」


そんな風に呼びかけられた青年。それはを生み出した当人である。
呼びかけた声の主は鼻の下にたっぷりとした白い髭を蓄えている、人の良さそうなくせに眼光だけはやたらと鋭い老人だった。


そちら(・・・)の経過は順調ですか?」



このときのは未だ身体の器官が形成されきっていないにも拘らず、辺りの状況を把握することができていた。それが彼女のどういった能力に起因するのかは彼女自身にも把握できてはいない。ただ、根本から説明を不要にできるかも解らない理由を挙げるとするならば、・インビトロという存在は『普通の人間』とは少しばかり生まれが違うというところだろうか。



『強化人間をひとつ』


何月ほどか前に、件の老人が博士に持ちかけた依頼はそれだ。

人工授精とそれに伴わせた多少の遺伝子操作。

以上の少しばかり異常な過程を経て、は生まれた。


白髪の老人はこうも言う。


『性別は情やしがらみを生むから必要無い』
『必要以上の好奇心はそれ(・・)が歩む立場からすると諸刃の剣になるだろうから、
 ひたすら使命に従順な性格を形成させること』


ロボットでも作ったほうが早いのではないかと博士は鼻で笑ったものの、どうしても人間が必要らしい。
強化人間は将来的に、どうやらヴァチカンが頂点である人間の身辺警護にあたる使命を背負うらしかった。





「博士」



 試験管から出てきた強化人間は、残念ながらロボットにはなりきれない存在では遭ったが、それでも自分の使命をひたすらに遵守しようとする、健気な、人より少しだけ思い込みの強い少女へと順調に育っていった。
涼やかな声が、父親に縋る子供のように揺れている。博士と呼ばれたまだ歳若く見える青年はの声に振り向かないまま研究室の扉を開き、暫時立ち止まる。


「どちらへ、行かれるのですか?」
「話をつけなければならない男がいる。 私はその場所へ向かう。」
「そうですか。それではお気をつけ下さい」


彼女の美しい一礼が博士の背中へ向けられる。博士と呼ばれた男は、の博士である以前に一介のエクソシストでもあった。更に千年伯爵と数百年来の古い友人、もしくは、――仇敵でもある。 彼の傍で息をするうちにはいつか来るのであろう彼が自分の目の前から消えてしまうその時と、その覚悟を決めていた。



「インビトロ」
「はい」
「貴様の誇りが、貴様のために存在しない日もあるだろうが」
「はい」
「――這い蹲ってでも。生きろ」
「承知いたしました、ムッシュ・タイムスロット」




 彼女には。

肉片を分かち合った母親も、愛情を与えてくれるはずの父親も、居ない。
それでも生き抜く方法はたしかに彼から教わった。彼女を形成するのは、砂糖でもスパイスでもなく、この世の素敵なもの全てでも何でもない。




―――彼女に有るのは、自己無用への恐怖と神への信仰心。そして、多大な忠義心。








***





他人によって生み出され、他人によって定義づけられ、他人によるその支配を『正しきもの』と思い込む少女の世界は一体どのようにできているのだろうか。太陽は明るいのか。空は青いのか。風は流れるのか。水は落ちるのか。人間は、…――。



「…、…おい、…」




 投薬を施した彼女の容態は、時間の経過につれ良い方向には向かっているようだった。

ただ、目を覚まさない。


熱は引いていて、今は落ち着いたように目を閉じている。人間味のない人形のようなその寝顔に、彼女と自分、ひいては全体にとって最悪の展開を考えていた彼は安堵していいのか固唾を飲むべきなのかもわからぬ状況に迷いあぐねていた。暫時は様子を伺うように声を掛けていた彼ではあったが、やがては一向に反応の返らないの顔を見守るに落ち着いている。


投薬の後、すぐに眠るように息を潜めた・インビトロの様子と事の始終を室長に報告したところ、どうやら彼女についての全てを掌握したような様子のコムイからは「リーバーくん、大丈夫だから」と逆に落ち着くよう宥められてしまった彼だった。直にきっと、室長が必要な人や物をこの部屋に寄越してくれる。


コムイ室長のしみじみとした反応を伺うに、この自体は特にイレギュラーというわけでは無いのかもしれない。


それでも早く、誰か彼女を看てやってくれ。
不思議と祈るような気持ちだった。



「…――ああ、」


そうして温くなってしまったかも知れない、とリーバーが彼女の額のタオルをつまみ上げるのと、彼女の身体が小さく揺れるその時はほぼ同刻だった。
白い髪が微かに揺れた身体に合わせて、ぱらりと流れる。


「! …?」



リーバーの手から白いタオルが落ちていく。思わず身体を彼女のほうに向けて確認するように静かに呼びかけると、やはりは白い瞼をゆっくりと、どこか機械的な仕草で持ち上げた。 それを見たリーバーはまるで赤子が産声を上げたときのような錯覚に陥って、安堵の表情でぐっと息を呑む。
現れた瞳はリーバーの身体を視認すると、二度、三度と瞬きを繰り返した後 スッと静かに立ち上がったと思いきや、椅子に腰掛けるリーバーの隣の床へぺたりと正座をしてしまう。



「おはようございます、博士」



深々と、ゆったりとした美しい一礼だった。
彼女の声には熱病に冒されていた頃のような苦しげな揺れは一切見られず、ただひたすらに凛と冷ややかな色が添えられている。 「…博士…?」にそんな呼び方をされたのは初めてだったが故に、そして脳裏に薬液の存在がちらついたが為に、リーバーは思わず少しだけ狼狽しながら彼女に呼びかける。


「身体はもう、大丈夫なのか?」
「一切の問題は御座いません。 心労をお掛けしたようで、誠に申し訳ありませんでした」



一本線の軸からぶれないその対応は、どちらかといえばリーバーと彼女が出会った当初――1年前の日と重なるように彼には思えた。どちらかと言えば本来は警戒心が強く人見知りなは、気軽に声を掛けただけでも張り詰めたような緊迫感と共に返事をするような子供であった記憶はそこまで古いものでもない。周りに気を配りすぎて、遠慮をしすぎて、常に自分の不手際や失態の未来を恐れているような、そんな少女。



「別に謝ることじゃない、



安心させるようにそう微笑むと、彼女はほんの一瞬目を見張った。そうしてすぐさま少しだけ哀しげに瞼を伏せると、しっかりとした縋るような色の視線をリーバーに送る。



試験管(インビトロ)とお呼び下さい、博士」



小さな、それでもはっきりとした切願のように聞こえる響きだった。




「あなたが私に与えてくださった、唯一無二の名前なのに…」






 落ち込んだように呟かれるその声に、思わずリーバーは言葉を失ってしまった。



リーバー・ウェンハムと・インビトロ。
1年前、ほぼ同時期に黒の教団本部へとやってきた二人ではあるが――当然ながら化学班を纏める班長と、一介のエクソシスト。ただそれだけのみの糸のような関係性であったが為、お互いのことを知らないわけではないが全てを把握しているわけではない。彼女は彼の歴史を知らないし、彼だって彼女の生まれを把握してはいないのだ。



そんな二人の奇妙な関係は、今日から、始まる。